心が折れる 金田一秀穂さんは透ける自己愛が「気持ち悪い」と

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   サライ8月号の「巷のにほん語」で、金田一秀穂さんが「心が折れる」という言い回しを採り上げている。私も「乱用」が気になっていたので、興味深く読んだ。

「『心が折れる』らしい。以前なら、がっかりしたとか、やる気をなくした、とでも言うところだが、『心が折れた』という。『折れた音がした』とまで言う。ホントかよ」

   先生、ハナから戦闘モードである。心が折れるなんて大仰すぎないかキミ、悲劇の主人公でも演じているつもりかい(?)といった辟易が言外にのぞく。金田一さんは、かつての学生運動でよく使われた「挫折」という言葉を引き合いに、こう続ける。

「『挫折する』ときは、仲間がいたように思う。何人かで、もう辞めようかということになって、安酒でも飲んで、泣くこともあったかもしれない、『夜明けは近い~』などと歌ったりしたかもしれない.いずれも、団塊世代のお兄さんたちである」

   〈なまじ期待するものがあるから挫折する〉と学んだ金田一さんらポスト団塊は、最初から希望は持たず、しなやかに、したたかに生きる戦略を選んだという。

   昨今の「心が折れる」人たちは、挫折と違って孤立し、連帯を求める様子もない。

「折れる心とはどんな心だったのだろうか。美しく直立して、細く高く、硬度が高くて、壊れやすいのだろう...それにしても、そんなことをあまり人に言うものではない。恥ずかしいと思わなければいけない」
  • 「もう、ダメだ…」
    「もう、ダメだ…」
  • 「もう、ダメだ…」

照ノ富士と池江さん

   その言葉に語らせようとするのは、自分がどれほど辛い経験をしたかというアピール、発信源は感傷にまみれた自己愛だ。悲劇の主人公として同情を請う心理が透ける...そんなふうに見抜いた筆者は、「何やら気持ち悪い」と切り捨てる。

   そのうえで「本当に心が折れそうな経験をした人たち」を例示する。まずは大相撲の照ノ富士である。怪力の大関として将来を期待されながら、故障で序二段まで下がった後、精進を重ねて大関に復活。先の名古屋場所でついに横綱昇進を決めた。

「一流企業の重役だった人が、突然パートの運転手になってしまうようなことである。しかも、違う会社ならともかく、同じ会社の同僚たちの間で落ちぶれてしまう。こういうことを、心が折れそうな、というのだ」

   筆者が挙げるもう一人は、病床からプールに戻って来た池江璃花子選手だ。

「よりによって白血病になった。かつての死病である。見事すぎるほどの復活をした。本物は心なぞ折れない」

   ホンモノなら簡単に心が折れるはずがない。これほど重い含意の言葉を軽々に多用するのはニセモノに違いない、というのが言語学者の結論である。

発信者の甘えが

   スポーツ選手や芸能人が多用する「はい、心が折れかけました」といった表現は、ひとつの流行り言葉のようなもの。全部が全部「ヒロイックな自己愛」の発露ではなかろう。しかし金田一さんが覚える「気持ち悪さ」は理解できる。

   「折る」という動詞には、修復不能に近い語感がある。ポキリと折れる心について、筆者は「美しく直立して、細く高く、硬度が高くて、壊れやすい」と、ガラス棒のイメージを重ねている。「以前なら、がっかりしたとか、やる気をなくしたとでも言うところ」を、あえて深刻な表現で伝える性根に、発信者の「甘え」が見えてしまうのだ。

   これに対し、コロナで四苦八苦の飲食店主が使う「もう心が折れそうですよ」は、より共感を呼ぶ。いつ終わるとも知れないコロナ禍。解除と発動を繰り返す緊急事態宣言に、商いと生活が翻弄されていることを皆が知っているからである。

   このように、使う「資格」が問われる言葉というものがある。そもそも成長過程で実力が定まらない少年野球の選手に、スランプという言葉は不似合いだ。スランプは、アスリートに限らず一流どころだけに許される「不調」の最上級表現である。

   本作で連載55回となる金田一さんのコラムは、気になる言葉をプロの視点から批評する。当「遊牧民」でもこれまで「乾物屋」「肉肉しい」「スピード感」の回を使わせてもらった。いずれも日本語愛にあふれた、鋭い指摘が満載だった。

   今作からは、表現を盛ることなかれという教訓をいただいた。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。

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