anan(6月23日号)の特集「癒しの法則 2021」に、作家のくどうれいんさんが「雨に濡れろ」と題する短文を寄せている。特集にある「心を整えるエッセイ」の1本で、くどうさんのほかに最果タヒさん、花田菜々子さんが寄稿している。
「雨に濡れろ」は比喩ではなく、傘もなく大雨の中に身を置くことで、悲観や不安を洗い落とそうという、過激かつユニークな提案である。
コロナの日々を労わる冒頭は、「行けない、会えない、はしゃげない日々を、一年以上よくがんばってきたと思う...何とか自分のご機嫌をとり『ご自愛』するため、いろいろな方法を試してみた人も多いのではないだろうか」という調子だ。
「『ご自愛』だけじゃ世界は変えられない。しかし、世界を変えようと発奮するにもエネルギーが必要だ。心躍ることのほとんどが『不要不急』とされてしまう日々でエネルギーを蓄えるためわたしは提案する。雨に濡れよう! もう一度言う。雨に濡れるのだ」
特異な発想のベースには、くどうさん本人の体験がある。数年前、就職活動が大失敗した帰り道で大雨に遭ったそうだ。ちなみに彼女は現在26歳である。傘の用意はなく、やけくそついでにリクルートスーツで2キロ歩いて帰宅した。下着や鞄までずぶ濡れだ。
「それが想像以上にきもちが良かった。最悪すぎたのだ。最悪すぎる心情と現実に、大雨はこれ以上ないくらい寄り添ってくれた」
悲観や不安を砕く
くどうさんは続いて「大人が雨に濡れる方法」を説く。
雷雨ではない大雨がいい。着衣はTシャツかパーカー、水分をよく吸い、じっとり重くなる素材がお勧めだ。足元は乾きやすいサンダル。傘を持ちながら差さないのは傍目に不自然だから、スマホや時計とともに雨具は置いて出る。雨中に飛び出したら、不審がられないよう、急に降られて慌てる人のふりをする。
そして、人目の少ない場所に行ってからが本番である。
「ゆっくり歩いたり、時々天を見上げたりして、降る雨を存分に堪能する。頬や手の甲に直接雨が当たるのは、おそらく、皆さんが想像している以上にきもちがいい...びっしょりと服の色が変わるまでの間、存分に自分のことを悲観するのがいい」
「もうおしまいだ」「どうとでもなれ」と思った頃合いで、体が冷えすぎないうちに帰路につく。すっかり重くなった服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びる。
「きっとあなたは(うっわー!)と思うだろう...からだを貫くような温かさに、悲観や不安や苦悩はすべて打ち砕かれる。『生きているなあ!』と思うだろう」
できれば家を出る前に風呂に湯を張り、ビールを冷やしておく。「いやー最悪だ最悪だ! やんなっちゃうぜ!」と笑いながら、ほてった体にビールを流し込むのだ。
「ずぶ濡れの後ろ歩きでも進めばそれでいい。時々は雨に濡れて、未来が、世界が、わたしたちをちゃんと前向きにしてくれるかどうか、みんなで見てやろーぜ」
手荒い気分転換
くどうさんは盛岡市在住。このほど『氷柱(つらら)の声』が芥川賞候補となったことで、改めて注目された。短歌や俳句は工藤玲音の本名で手がける。
ananの特集の副題は「心地よく、ハッピーなココロの整え方」。コロナ禍でストレスがたまり、心がささくれ立つ日々に健やかな暮らし方を提案している。
「最低の時は雨に濡れろ」というメッセージは、筆者の言葉を借りれば「深いプールに潜り底を触るように、人生のどん底に指先で触れる。そうしてからでないと、水面に浮かび上がることができないこともある」という理屈である。「可哀そうな自分をココアで温めるよりも、可哀そうな自分の可哀そうな手触りを味わうのが好きなのだ」と。
毒(ずぶ濡れ)をもって毒(悲観や苦悩)を制す。少し手荒い気分転換である。精神的デトックスの、ひとつの手法には違いないだろう。
「飛沫あふれる情熱的な日々」といった表現には、短詩から文芸に入った人らしく、ことば本来の瞬発力に任せるような潔さを感じる。
少女時代はいろいろ言われたそうだが、一度聞いたら忘れられない名はプロの書き手として強みである。7月14日、芥川賞の選考会が待ち遠しい。
冨永 格