「アブク銭」手に政界へ
立花さんが、田中氏の苦学力行を「二十四歳まで」と限定しているのは理由がある。
立花さんは、田中氏がとんとん拍子で飛躍するきっかけになったのは昭和17(1942)年、23歳の時に8歳年上の坂本はなさんと結婚したことだと見ているからだ。
はなさんは当時、実家に出戻っており、7歳の連れ子がいた。坂本家は、坂本組という、かなり大きな土建業兼材木屋を営み、たくさんの地所を抱えていた。その資産を受けついだことで、田中氏の小さな設計事務所が、結婚翌年には社員100人以上の田中土建工業に急拡大したと『研究』は指摘する。
このあたりのことは、石原慎太郎氏が田中氏について書いたベストセラー『天才』(幻冬舎、2016年)とは大きなずれがある。『天才』ではおおむねこうだ。
「事務所として借りた家の家主の娘に好意以上のものを感じるようになり結婚。今までの個人企業を株式会社に変えると、年間の施工実績が全国50社に入るまでに育った。...昭和19年には、理研の工場を朝鮮に移すという当時のお金で2000万円を超える大事業を請け負った。しかし敗戦でご破算。資産のすべてを朝鮮に寄付すると宣言して帰国した」
「日本に戻ると旧知の人物から、進歩党への300万円の資金援助を頼まれ、『即座に快諾』。自分も、『15万円出して黙って神輿に乗っていれば当選する』といわれ、ついその気になって昭和21年4月の衆院選挙に立候補したが、落選。1年後の総選挙でこんどは当選し、政治家としての第一歩を踏み出した・・・」
これは、田中氏本人が書いた日本経済新聞の「私の履歴書」(1966年)の内容とほぼ重なるが、立花さんは『研究』で疑問を投げかける。戦後すぐの巨額政治献金、2度の国政選挙などの資金はいったいどこから出ていたのかと。そして当時の関係者をたどり、朝鮮で請け負った工場移転の前払い金をそっくりいただき、その莫大な「アブク銭」を手に政治の世界に入ったとみる。