週刊文春(6月17日号)の「ツチヤの口車」で、土屋賢二さんが「従順のすすめ」を説いている。ご存じ、哲学者によるユーモア随筆。存分に楽しむには、一行たりとも真に受けないこと。それでも通読すれば何かは残る...という期待もたいてい裏切られる。
「世界的に人権意識が高まっている。それをよそに、わたしは自分の人権を縮小することに成功し、従順一筋の道を歩んでいる」
冒頭から怪しさ全開である。従順になると何かいいことでもあるのか。筆者はその疑問への答えを後回しにして、そもそも日本人には従順になる下地があると力説する。
「日本人の子どもはほとんど、寝ろと言われれば寝、食べろと言われれば食べ...大した理由もないのに命令に従わされてきた。途中、『個性を伸ばせ』と言われ、従順の道を捨てかけても、浴衣で登校し、授業中編み物をしたりすると、『協調性がない』と注意されるから、個性を目指すのは断念する仕組みだ」
教育と同じく結婚も重要で、「安楽な生活へのこだわり」を捨てる必要があるという。
「あとはただ摩擦を避けていれば、パチンコの玉が釘に当たっては跳ね返されるように、自分の意思とは関係なく自分の進路が決まる。これが従順な生き方だ」
自由意思を捨てた人生が面白いのだろうか...筆者によれば、自分で決めないからこそ予想困難でスリルがある。「何もかも思い通りになったらつまらない」と。
相手の思い通りに
従順な生き方の根底にあるのは「相手が思い通りにならないなら、自分が相手の思い通りになればいい」という達観らしい。双方が己の思いを通そうとしたら、互いに争いに明け暮れることになる。逆に、自他どちらの思い通りになっても結果に大差はないと知れば、争いのない生き方が手に入る。
「しかも相手の思い通りになれば、相手はわたしに依存するようになる。家来がいなくなった王様ほど惨めなものはないからだ。相手は、わたしが家来をやめないよう、わたしの顔色をうかがうようになる」
ここで筆者は犬の従順さに触れつつ、一気に結論に向かう。
「従順とは何だろうか。犬は従順だとされるが、それは『お手』などの芸をするからではない。サーカスのライオンやクマも芸をするが、従順ではない。犬が従順だとされるのは、犬は芸をするにも嬉々としているからだ...尻尾を振れば従順なのだ」
飼い主は犬の散歩に付き合い、餌をやり、ボールやフリスビーを投げて遊び相手にもなる。体調を崩せば動物病院にも連れて行く。こうしてみると...
「飼い主の方こそ犬の思い通りになっているのではなかろうか。どちらが従順なのか、実態は定かではないのである。妻よ。これで少しは従順になる気になってくれただろうか」
全文、妻への訴え
土屋さんの恐妻キャラは愛読者とのお約束であり、今回も概ね妻への伝言である。つまり、従順なふりをして私(土屋)を思うままに操る手もありまっせという助言、あるいは、私は奴隷のふりをしてあなた(妻)を手のひらで転がそうとしているのに上手くいかないという告白。どちらにしても、すべては筆者から「従順ではない妻」への訴えなのだ。
土屋さんの連載は、まじめに冗談を連ねるところが売りである。まあ、そんな「分析」を試みること自体、すでに先生の遊びに付き合うことになるのだが。
今作で笑ったのは「紀元前五世紀の古代ギリシアで奴隷の身でありながら『わたしは何と自由なんだ! 何もかも思い通りだ!』と叫んだ詩人アルキクセノスをご存じだろうか」という問いだった。土屋さんはギリシャ哲学の専門家である。
うむ、どこかで聞いたような話だなと思いつつ先を読むと、「知っていると答えた人は、わたしがいま考えついた人物をどうやって知ったのか説明してもらいたい」と続く。悔しいが見事にだまされた。本題とは何の関係もない小ネタ、そうした「特典」も魅力...おっと、このへんでやめておこう。
冨永 格