with 7月号の「令和女子のための新教養」で、小島慶子さんが議員や管理職の女性比率に下限を設ける「クオータ制」を語っている。〈実力のない人に女性ってだけで下駄を履かせるあれね〉とか〈結局はエコひいき〉といった解釈は間違いだと。
「下駄を履かせるのではなく『ステージに上げる』措置。そもそもステージの上も下も男性ばかりで女性は入る隙間がなく、弾き出されて隅っこに押しやられています。だから女性たちのために、ちゃんと通り道を作り、場所を確保しましょうということなのです」
小島さんは、世界経済フォーラムの「グローバルジェンダーギャップ指数」で日本が世界120位、主要先進国の最下位に甘んじていることを紹介する。とりわけ政治と経済の分野が遅れており、女性の議員、役所幹部、企業の管理職はまだまだ少ない。
「そもそも女性の能力が低いからだと言う人もいます。まさにそのような決めつけによって、女性は議員や管理職に選ばれにくくなっているのです」
男性なら「あの人は能力が低いから議員や管理職には向かない」と言われることはあっても、「男は...」と十把ひとからげで拒絶されることはない。
「人によって、適性や能力は異なります。でもなぜか女性の場合は、その人個人ではなく女性という属性によって評価されてしまうのです」
まずはステージ上に
小島さんによると、女性の中にも「女は男より頭が悪く、能力が低い」と考える人は少なくない。「男を立てるのが女の務め」「賢い女は嫌われる」「ものごとを決めるのは男」といった、世代を超えての刷り込みはそれほど強い。
クオータ制に対しても、テレビに登場するバリバリのエリート女性が「女だからというだけで能力のない人を登用すれば、かえって女性の信用を貶める」と指摘することがある。小島さんは「彼女たちは〈女性は男性より優秀ではない〉を当然のことと認め、女性全般を低く見ている」と批判する。
「彼女たちと同じかそれ以上に優秀でも...性別を理由に制約を受けて実力を発揮できなかった女性はたくさん、たくさんいます...環境に恵まれて能力を発揮できたことには無自覚で『自分は何もかも実力で手に入れた』と信じる視野の狭さと想像力のなさにはがっかりです」
筆者は最後に、政党の立候補者を男女同数にしたり、企業の女性幹部を3割以上にしたりする動きに触れて、こう締めくくる。
「このままでは孫の代まで変わらないと言われている日本ですが、ここ最近は変化の動きも出てきています...変化を加速するには、クオータ制の導入が現実味を帯びるでしょう。そのときにぜひ、下駄とステージを間違えないで議論を進めてほしいですね」
「名誉男性」の発言
私もクオータ制には賛成だ。意識の変化を待つのが理想だろうが、現状を放置すれば世界標準からますます置いていかれる。男女の機会均等が定着するまでの過渡期の策として、ルールによる荒療治も仕方ないと考える。
小島さんの指摘通り、女性にも男性と同じように機会が与えられなければフェアな競争にはならない。とりあえず男性が道を開けて女性をステージに上げる。そこでのパフォーマンスこそが「ひとりの人間としての実力」なのだ。
そう、踊りが上手いかどうかは、まずは踊ってもらわなければ確かめようがない。評価者=採用責任者や人事権者の多くが男性である現実は動かないけれど、昨今、男性幹部も石頭ばかりではなくなっている。
小島さんがいら立つのは、「自分は例外的に優秀であるためにエリートになれたと信じている」女性が、メディアで後ろ向きの持論を発信していることだ。こうした「名誉男性」的な立場こそ、ものごとを前に進めるうえで障害になる。
男女の身体機能や生物的な役割は違うから、何から何まで同じとはいかない。しかし社会でのあらゆるチャンスは均等に与えられるべきである。それで組織の風通しがよくなり職場が活気づくなら、男女ともにハッピーではないか。
ジェンダー研究の大御所、上野千鶴子さんが東洋経済(6月12日号)誌上で明言している。「女性を無駄遣いする国は、ゆっくり二流に堕ちていく」と。
冨永 格