25ans 6月号の「ウィズコロナ時代の『妄想の旅』」で、スイス在住のエッセイスト長坂道子さんが、サハラ砂漠に思いを馳せている。
コロナで世界的に移動が不自由になるなか、海外経験豊かな筆者が社会的な視点を絡めて綴る連載。今年1月号で始まり、これまでパリ、ベイルート(レバノン)、台湾、モーリシャス、米国と巡ってきた。
「読みかけの本からふと顔を上げると、窓の外の気配が尋常でない...時間は午後の二時頃だっただろうか。確かその日はスイスの冬には珍しい晴天だった。ところがつい先ほどまで青かった空が、いつの間にかどんよりとした黄色に染まっているのである」
空だけではない。庭の木から隣家、遠方の山々までが黄色、というよりセピア色に近い。長坂さんは「世界の終末とはこんなだろうか」と思った。日本にいたら黄砂を思い浮かべるが、スイス気象庁の発表によると、実際それに近い自然現象だった。異次元のような景色をもたらしたのは、はるかサハラ砂漠から飛んできた砂埃だった。
広大な砂漠。地表の熱が上昇して竜巻が起こり、小さな砂粒だけが北アフリカから地中海へと吹く熱風シロッコに乗ってやってくる。3000キロ離れたスイスに至るには、アルプス山脈を越える必要がある。壮大な旅である。
「自分たちが旅に出られなくなって久しいせいもあるのだろう、小さな砂つぶたちがたどってきた道程が、なにやらひどく雄大でロマンチックなものに思われて胸が躍るのだった」
胸を躍らせたままで終わらないのが、ジャーナリストでもある長坂さん。サハラの砂で想起したのは、数年前、ドイツの難民施設で取材したスーダン出身の青年だった。
4年がかりの脱出行
少年兵をさせられた末に、母国を逃げ出したのは15の時。2年かけてサハラ砂漠を縦断、途中で投獄経験を経ても北上を続けた。地中海を渡って欧州にたどり着き、ドイツで難民申請の結果を待っていたそうだ。長坂さんが取材した時には、すでに19歳になっていた。青年の苦難を想い、返す言葉もなかったという。
ただ、彼が口にしたサハラは取材者にとって、思えば単なる地名でしかなかった。映画や写真で目にしたことがある、あの抽象的なイメージである。
「それが今、現実離れした黄色い世界に身を置き、砂つぶたちの長旅を思い描くことで、ほんの少しだけ具体的になった。スーダンの彼がたどった壮絶な道に、ごくわずかながら、ある種の実感を持って心を寄せることができたような気がするのだった」
サハラの砂が欧州内陸のスイスにまで飛んで来るのは、さほど珍しいことではないらしい。とはいえ今回は規模が大きく、かの国でもちょっとした騒ぎになったという。
砂に続き、こんどは渡り鳥たちがアフリカ大陸からやってきたそうだ。
「砂の客人、鳥の客人。彼らの旅に、かつてないほど敏感になっていることに改めて驚く。こんな気持ちもまた、ある種の旅心なのかもしれない。旅がかなわない時代の旅心。それは思いの外、自由で鋭敏で、そして未体験の初々しい心の状態だな、と思う」
想像力に肉づけ
長坂さんは 25ans 編集部を経てパリに渡り、米国や英国を経て現在はチューリヒで暮らす。海外発のエッセイを古巣で連載していることになる。
サハラ由来の砂粒で景色が一変。いわば異国でのお天気びっくりネタを、命がけで欧州を目ざすアフリカ難民に重ねたところが本作の売りである。前半部分だけなら、写真を添えたSNSで誰もが発信できる。これにドイツでの取材経験をつなぎ、知識から実感へと、取材者、観察者としての想像力が肉づけされていく過程が印象的だ。
「ほんの少しだけ具体的になった」「ごくわずかながら、ある種の実感を持って心を寄せることができた」という表現も奥ゆかしい。
タイトルにある、コロナ時代の「妄想の旅」ということでいえば、検査も待機もなく自由に国境を越えられる砂粒や渡り鳥への憧れに、切ないものを感じる。「彼らの旅」という表現はまさに「妄想」全開。私はそこまで感傷的にはなれないが、旅慣れた筆者の渇望はよくわかる。程度の差はあれ、世界の多くの人が感じていることだろう。
動くことさえままならない現実。〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻る〉という芭蕉の心境は洋の東西、時代を問わぬものらしい。耐乏自粛生活の1年2年が、人生のロスタイムとして最後に付け足されないか...そんな妄想をしてみた。
冨永 格