19世紀後半になると、産業革命による交通機関の発達、欧州各国の帝国主義的領土拡張、貿易拡大などがあり、東と西の往来が盛んになりました。先週取り上げたパリ万博などはその成果の一つで、日本は明治維新以前から招かれたりしていたわけです。
西洋から見たら、かなり独特な文化を持っていた日本の人や物品や芸術品は現地の人たちの興味を大いにそそり、フランスでの「ジャポニズム・ブーム」などに繋がっていきますが、今日は、東洋と西洋の出会いが結実した魅力的な曲、マーラーの交響曲「大地の歌」をとりあげましょう。
一味違っていた歌詞
日本では、以前に第3楽章が鳥獣戯画のアニメーションとともに洋酒のCMに使われ、「マーラーブーム」の火付け役となった、ある意味もっとも親しまれている彼の曲です。交響曲としては、最後期の曲に当たります。第8番の後に書かれ、本来なら、「交響曲 第9番」となるべき作品だったのですが、ベートーヴェンに端を発する「交響曲 第9番のジンクス」、つまり一人の作曲家は決して第9番以降の作品を完成することができない、ということを信じていたためか、この曲には番号を与えませんでした。
オペラ指揮者としても活躍していたマーラーですが、作曲家としては、若い頃からオーケストラ伴奏の歌曲も数多く作曲し、交響曲にも、第2番、3番、4番、8番と独唱や合唱パートを盛り込んでいますし、声楽が入らない交響曲でも、歌曲からの旋律引用などをおこなっていますから、この「大地の歌」の全6楽章、にも交互にテノールとアルトの独唱が入るのは彼にとっては自然なことでした。
ただし、その歌詞が、今までとは一味違っていました。彼は今までも歌詞によって歌曲集全体のテーマ的なものを演出してきましたが、この曲の歌詞は、全て中国の漢詩だったのです。マーラーが活躍した19世紀末は欧米列強によって中国が侵略されていた時代ではありますが、ウィーンの指揮者マーラーにとって、まだ中国は遥か彼方の地でした。しかし、東洋に興味のあったドイツの詩人、ハンス・ベートゲによる「中国の笛」(1907年刊行)という著作に接し、自身の仕事でウィーン歌劇場との決別や、子供の死など、プライベートの影響もあり厭世的になっていたマーラーは、一種の「東洋的悟りの世界」をそこに見いだします。