あだ名は「ドイツ坊や」
ハイドンの「天地創造」、モーツァルトの「フィガロの結婚」「魔笛」といった傑作の楽譜をロッシーニはどう勉強し、自分のものにしたか、というと、まずそれらのオペラやオラトリオの声楽パートだけを筆写し、そこに自分なりのオーケストラ伴奏を付けてみたのです。その後、古典派巨匠たちが実際に作曲した音を見比べて、自分の書いたものに書き込んでみる・・ということを繰り返したのだそうです。
ロッシーニは、「ボローニャ中にある本を読むより有益だった」と表現しているこの勉強法は、今でもパリ音楽院のエクリチュール(音楽書法)科などで行われている勉強そのもので、歴史の中で育まれてきたクラシック音楽の作曲技法を学ぶのに最適なものだったのです。
ボローニャ音楽院でのロッシーニは、そうやって「ドイツ物」にハマっていたために、師匠であるマッテーイ師(偶然にも、伊を訪れたモーツアルトに一番影響を与えたマルティーニ師の後任者でした)に「ドイツ坊や」なるあだ名を奉られたのでした。
そして、ロッシーニは、若き頃のハイドン・モーツァルト修行だけでなく、その後も大先輩の作品を勉強することを忘れず、ワーグナーと対談した引退後の時点でも、バッハの作品を勉強し、彼のことを絶賛し、ドイツ作品を評価しないパリの音楽界を嘆いています。メンデルスゾーンと対面したときには、ピアノで彼自身の「無言歌」や、ウェーバーの作品、バッハの作品を弾いてくれるように次々リクエストしたために、「なぜあなた達イタリア人は、しばしば、ドイツの音楽が好きなのですか?」と問われてしまいました。
ロッシーニは、「私は、音楽『だけ』はドイツ物が好きなのです。イタリアの音楽には飽き飽きしています。」と答えたそうです。
天才少年ではなかったロッシーニは、国境を超えたドイツ系の作品を徹底的に勉強するという「温故知新」で、歴史に残るイタリア・オペラの傑作を残したのです。
本田聖嗣