先週登場した、北伊ペーザロ出身のジョアッキーノ・ロッシーニ。彼は当時の現地の政治的混乱状況などから、本格的音楽教育を初めて受けたのが15歳頃からと、たいへん遅かったのですが、18歳でデビューするとその後は驚異的なペースでオペラを量産しました。それらの作品が時には大ヒットとなったために、彼の名声は、19世紀前半のヨーロッパ中に鳴り響くことになりました。
19年間に40作近いオペラ
37歳の時移住したパリで「ウィリアム・テル」を発表してオペラ作曲からは綺麗サッパリと引退し、美食探求の道に入ったので、活躍期間はわずか19年、その間に40作近いオペラを作曲し、現在でもよく演奏される「セビリアの理髪師」などはわずか13日で作曲されたということですから、彼の作曲の腕は、並大抵ではなかったわけです。
質も量も抜群、ロッシーニの実力は、彼より先輩のベートーヴェンも、少し年下のベルリオーズも、その後にオペラ作曲家として名を轟かすワーグナーも等しく認めるところでした。
ベートーヴェンは、ロッシーニのあまりの人気のために「第九」を地元ウィーンではなく、遠くベルリンで初演したほうがいいかも・・と悩み、パリで「ウィリアム・テル」を見たベルリオーズは「第2幕は神が作った!」と感激し、そのパリでまだ無名で貧困にあえいでいたベルリオーズは、ロッシーニのことを眩しく見上げていました。
友人が「ドイツの楽譜」を貸してくれた
「神童」でなかったロッシーニが、どうしてそんなに急激に才能を開花させたのでしょうか?もちろん、もともと才能があり、きっかけが無かっただけ・・とも言えますが、現代でも早期教育が必要とされるクラシック音楽の奥義を、文字通り「短期集中」で会得することが可能なのでしょうか?
そのヒントは、パリで引退した68歳のロッシーニが、ジャーナリスト、E.ミショット立ち会いのもと、30代のワーグナーと対談した中にありました。
ロッシーニは、「私は、感受性が鋭く、筆も早かったのですが、音楽の基本的な教育が欠けていました・・」と自分自身で認めているのです。しかし、そんな彼がボローニャ滞在中、もっとも役にたった勉強は、友人が、「ドイツの楽譜たち」を貸してくれたことだ、と断言しているのです。
「ドイツ」といっても国のことではなく、広くドイツ語圏・・のことです。彼自身は、外国から楽譜を取り寄せる知恵も財力もなかったのですが、「音楽上の友人」が快くハイドンやモーツァルトのオラトリオやオペラのスコア(総譜)を貸してくれたのです。
あだ名は「ドイツ坊や」
ハイドンの「天地創造」、モーツァルトの「フィガロの結婚」「魔笛」といった傑作の楽譜をロッシーニはどう勉強し、自分のものにしたか、というと、まずそれらのオペラやオラトリオの声楽パートだけを筆写し、そこに自分なりのオーケストラ伴奏を付けてみたのです。その後、古典派巨匠たちが実際に作曲した音を見比べて、自分の書いたものに書き込んでみる・・ということを繰り返したのだそうです。
ロッシーニは、「ボローニャ中にある本を読むより有益だった」と表現しているこの勉強法は、今でもパリ音楽院のエクリチュール(音楽書法)科などで行われている勉強そのもので、歴史の中で育まれてきたクラシック音楽の作曲技法を学ぶのに最適なものだったのです。
ボローニャ音楽院でのロッシーニは、そうやって「ドイツ物」にハマっていたために、師匠であるマッテーイ師(偶然にも、伊を訪れたモーツアルトに一番影響を与えたマルティーニ師の後任者でした)に「ドイツ坊や」なるあだ名を奉られたのでした。
そして、ロッシーニは、若き頃のハイドン・モーツァルト修行だけでなく、その後も大先輩の作品を勉強することを忘れず、ワーグナーと対談した引退後の時点でも、バッハの作品を勉強し、彼のことを絶賛し、ドイツ作品を評価しないパリの音楽界を嘆いています。メンデルスゾーンと対面したときには、ピアノで彼自身の「無言歌」や、ウェーバーの作品、バッハの作品を弾いてくれるように次々リクエストしたために、「なぜあなた達イタリア人は、しばしば、ドイツの音楽が好きなのですか?」と問われてしまいました。
ロッシーニは、「私は、音楽『だけ』はドイツ物が好きなのです。イタリアの音楽には飽き飽きしています。」と答えたそうです。
天才少年ではなかったロッシーニは、国境を超えたドイツ系の作品を徹底的に勉強するという「温故知新」で、歴史に残るイタリア・オペラの傑作を残したのです。
本田聖嗣