さみしがり ジェーン・スーさんは「誰かに心を寄せてみては」と

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   婦人公論(3月9日号)の「スーダラ外伝」で、ジェーン・スーさんが「さみしさを感じたら」と題して書いている。作品は、十年以上前の内輪のやりとりから始まる。

「女友達が『おかしい人はみんなさみしい』とつぶやいた。確か、会社にいた変な人の話や、突拍子もない意地悪をしてくる親戚の話をしていたときだった。やや唐突に発せられた言葉だったが、その場にいた面々はみな、瞬時に意味を理解し黙り込んだ」

   それまでジェーンさんは、人が迷惑するような奇行に及んだり、辻褄が合わない振る舞いをしたりする人たちの動機が分からなかったという。トラブルのリスクを冒してまでなぜ...と。しかし、寂しさがそうさせるのだと考えれば、腑に落ちることが多かった。

「己のさみしさを認められない人は、他者の関心を引き出すために、わざとノイズを起こす。迷惑だとしか感じていなかった行為の裏側を覗いてしまった気まずさとやるせなさで、私の胸はいっぱいになった」

   「自分だってそうだ。おかしいことをしているとき、私は同時にさみしさを抱えている」というジェーンさんは、しだいに〈おかしい人=さみしい〉を確信するようになる。

  • 奇行に走るのは寂しさゆえか
    奇行に走るのは寂しさゆえか
  • 奇行に走るのは寂しさゆえか

主役は自分だけ

   大人になってから友達を作るにはどうしたらいいか。ジェーンさんは最近、取材中にそんな相談を受けることが増えた。理由を問えば、他愛もない話を聞いてくれたり、共に行動してくれたりする人がほしいのだと。友人が少なくては世間体が悪いという人もいた。

   こういう人に対して、ジェーンさんはつい冷たく、「自分に都合のいい人が欲しいなら、お金で雇えばいい」と答えてしまう。

「私にとって友人とは、なにかあったら万障繰り合わせて駆けつける相手のことだ。それだけの価値があると、見込んだ人のこと」

   さらに、これも友人からの受け売りだとして、以下の言葉を引用する。

〈自分主演、自分監督、自分脚本の舞台に出てくれる人などいない〉

   誰もが人生という舞台で、懸命に主役を演じている。周囲がどう思おうが、生ある限り脇役に甘んじる人などいない。だから他人の人生に、ちょい役で「友情出演」してくれる人はいないと思うべし。

「なぜさみしさを感じるのか。やや手厳しい物言いになるが、自分のことしか考えていないからだろう...手始めに誰かに心を寄せてみるとよい。あの人はいま困っていないかな...と考えると、雪原に取り残されて冷え切った心の塊が、少しずつ溶解される」

   ジェーンさんは一方で、「心の暖を取るためだけ」の友人願望を頭から否定しない。さもしいが、おかしくなる前の予防策として控えめに求めるのは構わないという。

「自分ばかりが周囲を思いやっているように感じるときは、思い切って人間関係の河岸を変えてしまおう。相手を思い、行動し、自分にも同じようにしてくれる人が、かけがえのない友人になるのだから」

付き合いの河岸を変える

   さみしいと感じている人は、自分のことしか考えていない、だから友人関係から考え直す必要がある、という論旨だろう。たまには他人のことを思いやる。自分のことしか考えないと、「本当はさみしい自分」さえ認められず、他の関心を引こうと奇行に走ってしまう...この考察も概ね納得できるものだ。心理学の知見は別にして、経験的には分かる。

   人生の基本は、自分だけのワンマンショー。身勝手な思いを無償で満たしてくれるお人よしはそういない...悩める者に寄り添いながら突き放し、よろける相談者をまた抱きとめる、ジェーン流の指南術である。

   結語にある「人間関係の河岸を変える」という表現はユニークだ。惰性で続けてきた付き合いを根本から見直す、といった意味だろう。友人の「序列」や会う頻度をガラガラポンして、本当の親友(らしい知人)だけを残す...これはなかなか難しそうだ。

   かくなるうえは、ジェーンさんの友人リストを覗き見したくなる。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。

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