今年も日本列島は比較的暖かかったようで、東京ではほとんどまとまった降雪がなく、各地の桜の開花も「今までで一番早い」というような言葉とともに報告されそうです。
今日は、クラシック音楽の本場ヨーロッパの中で、南にあって暖かい国、スペインの作品を取り上げましょう。
異国情緒を感じる素敵な曲
スペインの作曲家、マニュエル・デ・ファリャの「スペインの庭の夜」です。
本来のネーミングは「交響的印象:スペインの庭の夜」となっていますが、楽器編成はオーケストラと独奏ピアノとなっているので、編成だけからいうと一種の「ピアノ協奏曲」といえます。全部で3楽章からなり、それぞれ第1楽章.ヘネラリーフェにて 第2楽章.遠方の舞踏 第3楽章.コルドバの山の庭にて と名付けられています。
第2楽章の場所はどこか明らかにされてはいませんが、第1楽章がグラナダのアルハンブラ宮殿の離宮、第3楽章がコルドバですから、全体として、我々外国人が「もっともスペインらしい」と感じる、南スペインのアンダルシア地方を舞台としていると思われます。
スペインを一時期支配していたイスラームの文化がそこかしこに香るアンダルシア地方の異国情緒を感じる素敵な曲です。
大変なスロースターター
ファリャ自身もアンダルシア地方の港町カディスの貴族の家柄の出身で、アンダルシアはいわば彼の「ホームグラウンド」でした。しかし半面、首都マドリードなどのカスティーリャ地方や、バルセロナを擁するカタロニア地方と違って田舎であり、1876年生まれの彼にとって、地元の音楽環境は貧しいものでした。彼は、17歳のときに初めて交響曲を聴いて天の啓示のように感じ、音楽の道に進むことを考え始めた、大変なスロースターターだったのです。そしてそれは険しい道のりでした。
首都マドリードに出てピアニスト、ホセ・トラゴに師事したものの、当時のスペイン音楽の第一人者ペドレルには、アドバイスこそもらえたものの、決して温かくは迎えられませんでした。処女作オペラ、やはりアンダルシアのグラナダ郊外を舞台とした「はかなき人生」で、マドリードのアカデミアの賞を得るものの、なぜか上演はされないという謎仕様、独学に近い形で歩みをすすめるファリャにとっても、これ以上学ぶには外国に行かなければならない、と決心させる出来事の数々でした。
花の都で一流になる
スペインの多くの音楽家が目指すのは、隣国でありながら音楽先進国の仏です。1907年、仏国内のヴィシーに湯治にゆく友人の教師、というかたちで入国し、ちょっと首都パリに足を伸ばしますが、結局、かれはその花の都で長期滞在をすることになり、音楽家として一流になります。
しかし、それも順風満帆ではなく、最初に訪ねたドビュッシーには、「ほう、ファリャさん、あなたはフランス音楽がお好きなのですか!私は嫌いなんですよ!」という彼らしい謎のレトリックでもって、あしらわれてしまいました。次に訪ねたポール・デュカスが、「はかなき人生」の価値を認めてくれ、オペラ・コミック座での上演を取り付けてくれたり、同じくパリで研鑽・活躍しているスペインのスーパーピアニストにして作曲家、アルベニスや、同じくピアニストのリッカルド=ヴィニェス、さらにはその友人としてフランスを代表する作曲家であるラヴェルに次々とつてができ、彼の世界は一挙に広がりました。出版社からファリャの楽譜が出版されるようになると、最初は不幸な出会いだったドビュッシーとも親しく打ち解け、生涯の友人となります。
気がついたら花の都に7年も滞在することになったファリャですが、その中で作曲されたのが「スペインの庭の夜」なのです。つまり、室生犀星ではありませんが、この曲は、ファリャの「ふるさとは遠きにありて思ふもの」なのです。
すべてが素敵なアンダルシアの香りに満ちたこの曲ですが、特に第1楽章の冒頭、目をつぶって聞くと、レコンキスタ以前のイスラーム時代のグラナダの噴水の離宮にタイムトリップしたかのような気分が味わえます。
ファリャの強い望郷の念が、傑作を生み出したのです。
最終的に、ファリャは1914年9月第一次大戦が勃発したことにより、仏を離れて、故郷スペインへ戻ります。
本田聖嗣