花の都で一流になる
スペインの多くの音楽家が目指すのは、隣国でありながら音楽先進国の仏です。1907年、仏国内のヴィシーに湯治にゆく友人の教師、というかたちで入国し、ちょっと首都パリに足を伸ばしますが、結局、かれはその花の都で長期滞在をすることになり、音楽家として一流になります。
しかし、それも順風満帆ではなく、最初に訪ねたドビュッシーには、「ほう、ファリャさん、あなたはフランス音楽がお好きなのですか!私は嫌いなんですよ!」という彼らしい謎のレトリックでもって、あしらわれてしまいました。次に訪ねたポール・デュカスが、「はかなき人生」の価値を認めてくれ、オペラ・コミック座での上演を取り付けてくれたり、同じくパリで研鑽・活躍しているスペインのスーパーピアニストにして作曲家、アルベニスや、同じくピアニストのリッカルド=ヴィニェス、さらにはその友人としてフランスを代表する作曲家であるラヴェルに次々とつてができ、彼の世界は一挙に広がりました。出版社からファリャの楽譜が出版されるようになると、最初は不幸な出会いだったドビュッシーとも親しく打ち解け、生涯の友人となります。
気がついたら花の都に7年も滞在することになったファリャですが、その中で作曲されたのが「スペインの庭の夜」なのです。つまり、室生犀星ではありませんが、この曲は、ファリャの「ふるさとは遠きにありて思ふもの」なのです。
すべてが素敵なアンダルシアの香りに満ちたこの曲ですが、特に第1楽章の冒頭、目をつぶって聞くと、レコンキスタ以前のイスラーム時代のグラナダの噴水の離宮にタイムトリップしたかのような気分が味わえます。
ファリャの強い望郷の念が、傑作を生み出したのです。
最終的に、ファリャは1914年9月第一次大戦が勃発したことにより、仏を離れて、故郷スペインへ戻ります。
本田聖嗣