先週に引き続いて、J.S.バッハを取り上げたいと思います。俗に「音楽の父」と日本では呼ばれるJ.S.バッハですが、この表現は、「何か偉大なものを作り上げた」というような意味合いがあるように見受けられます。果たしてそれは真実でしょうか。
本国でも歴史の中に埋もれていた
まず、バッハ家は代々音楽家の家系でした。16世紀後半から18世紀にかけて、代々チューリンゲン地方で音楽家を輩出し続け、州都エアフルトでは、「バッハ」といえば(もともとの意味は「小川」ですが)音楽家のことを指す、といった時代さえあったようです。
「大バッハ」ことヨハン・セバスチアン・バッハの何人かの子も、やはり音楽家となりました。彼らの代になって、初めて、ベルリンやロンドンといった他の地方や他国に活躍の場を求める人たちが出てきました。これは、欧州における戦乱の影響や、交通機関の発達によるところが大きいでしょう。
つまり、「音楽の父」バッハは、先祖代々チューリンゲンで続く音楽家の家系を忠実に継ぎ、ほぼ生涯そこからあまり移動せずに、ルター派のキリスト教会の信仰に忠実に、家業である音楽を持って神の福音を表現し、一族の後継者や教会に集う人々のための音楽教育の教材を編成したり、時には世俗の領主のための音楽を提供したりしたのです。
それは、この時代の音楽家としてはごく普通のスタイルでした。単純に比較すれば、同じく「音楽の母」のニックネームを奉られているG.F.ヘンデルの方が、祖国を離れて英国に帰化したり、オペラの流行が下火になったと思ったら即座にオラトリオ制作に切り替えたりと、「当時としては斬新」な生涯でした。
事実、「普通の音楽家」と見られていたJ.S.バッハは音楽家の子孫がいたにもかかわらず、死後すぐは忘れ去られてしまい、ロマン派のメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を復活上演するまで、ドイツ本国でさえ、歴史の中に埋もれていました。
では、何をもって「大バッハ」「音楽の父」と言われるのでしょうか。
決して先駆者ではなかった
確かに、彼の作品を謙虚に聞けば、現代の我々にも、その凄さはわかります。
先週取り上げたように、バッハの時代と現代では、楽器がかなり違っています。ピアノは黎明期すぎてまだまともな楽器が存在しませんでしたし、オーケストラに使われる各楽器も、現代では「古楽器」と分類されるものがほとんどで、現代の楽器とはサウンドがかなり違っています。最近では古楽器での当時の演奏法による復活上演も盛んですが、やはり印象はかなり違ってきます。
しかし、そんな楽器や演奏法の違いを軽く乗り越えるぐらい、バッハの音楽はどれも魅力的で、「新しい現代の楽器で弾いたから、魅力半減」などということは決してありません。有名な「トッカータとフーガ」の冒頭のフレーズ、「衝撃的」ということを表現したり、パロディーで「鼻から牛乳~」という歌詞をつけて歌われるメロディーなどは、300年以上の時を超えて、現代の我々の心にも「刺さり」ます。
しかし、「音楽の父」は、あまり新しいことをやっていないのです。言い換えれば、革命的に新しいことなどを産み出してはいません。新しい楽器の発達などを受けて新しい音楽を開拓しようとしたのは、むしろ彼の息子たちだったりします。事実、バッハの息子たちが撒いた「新しい種」は、そのさらに後のモーツァルトなどに大きく影響を与えています。
大バッハは、決して先駆者ではありませんでした。しかし、まぎれもなくとてつもない才能を持った彼の凄さは、「それまでに存在したあらゆる音楽や哲学や信仰」を統合し、練り上げて、膨大かつ優れた作品を作ったことにあったのです。バロック時代の北ドイツのオルガンを中心とする教会音楽を軸に、先進国イタリアの協奏曲様式や、遠い隣国フランスの宮廷の舞曲の組曲、こういった伝統をすべて自分のものとし、その技法を究極まで練り上げて、すばらしい音楽を編み上げたのです。
それらの多くが宮廷や教会の内部での演奏のためのものだっため、死後しばらくは忘れ去られました。ちょうど市民のためのオペラやオラトリオを書いたヘンデルとは対照的です。
しかし、メンデルスゾーンによって「発見」されてからは、バッハはクラシック音楽の始祖の一人、と崇められるようになったのです。バッハとヘンデルの死をもってバロック時代の終えんと音楽史では分類しますが、まさにバッハは「集大成」を成し遂げた音楽家だったのです。
本田聖嗣