大日本帝国憲法の発布日
「建国記念の日」は1966(昭和41)年の制定。すんなり決まったわけではない。「戦前に戻る」という懸念で、各本面から強い反対の動きがあった。中でも有名なのは、歴史学者でもあった三笠宮崇仁さまの反発。
1959年の著書『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって―』の中で、「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。(中略)それは過去の事だと安心してはおれない。もうすでに、現実の問題として現われ始めているのではないか。 紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と批判した。
三笠宮さまはある日、保守の重鎮・大野伴睦氏のところを突然訪れ、「2月11日というのは科学的根拠がない。国家権力で祝日とするのは間違い」と自ら説明、「紀元節万歳」の大野氏の翻意を促したこともあるという。大野氏と親しく、実際にその様子を目撃した読売新聞記者・渡辺恒雄氏は「三笠宮殿下は非常に民主的な人」と記している。
ヤフー知恵袋には、「なぜ建国記念日は大日本帝国憲法の発布された2月11日」なのかという趣旨の質問も出ている。
「建国記念の日の前身である紀元節が定められたのが1873年。大日本帝国憲法の発布は1889年。大日本帝国憲法の発布日を紀元節にしたのではありません。記紀に書かれている神武天皇の即位日を太陽暦に当てはめると紀元前660年2月11日なることから、その日を紀元節と定めたのです。大日本帝国憲法の発布日をわざと紀元節にしたのか、それとも偶然の一致なのかは私にはわかりませんが」という回答が掲載されている。