最初は「出版権」
著作権の考え方は、そもそも出版事業が欧州で盛んになり、作家や作曲家に許可を得ていない、または、彼らに収入をもたらさない「海賊版」が横行するようになったから出てきた考え方です。したがって最初は「出版権」のようなものでした。現代のデジタルコピーに比べたら、「完全な」コピーではあり得ないのですが、それでも印刷物は、同じものを大量に作成できる、というところから、こういう問題がおこってきたわけです。
しかし、楽譜出版に限定して考えてみると、その周辺はずいぶんといい加減でした。すなわち、作曲家のオリジナル楽譜・・手稿譜や印刷用清書などとも呼ばれます・・・を、厳密な音楽的知識がある専門職人が正確に印刷譜にしたものが本来「正当な原典版」とされるべきです。
しかし、ピアノ譜など一人で弾く曲の場合ではあまり問題になりませんが、室内楽・オーケストラの作品など、大人数で演奏する楽曲の場合、手稿譜の総譜の段階から、演奏者一人一人用の「パート譜」というものが必要なため、必ず作成されます。そして、印刷譜がまだ黎明期だった17~18世紀では、パート譜も筆写なら、総譜も筆写されたものが多く流通しており、印刷楽譜ほど大量ではなくとも、多くの「筆者譜」の形で演奏家や演奏団体に届けられている以上、すでに「正当な著作権管理」などは望むべくもなかったのです。
すなわち、人気作曲家の新作をいち早く演奏したい団体や演奏家は、出版譜が出る以前に筆写譜を手に入れたり、それを団体内でさらにコピー(筆写)したり、著作者である作曲家の知らないところで、半ば公認で楽譜は複製されました。もちろん、筆写過程で作曲家本人が関与することも多かったのですが、演奏団体が大きくなればなるほど、また人気作品となり各地で演奏されるようになればなるほど、「本人」の目は行き届かなくなるものです。
意外なことに、音楽の都であるウィーンは、大都市であるロンドンやパリほど人口がなかったために、印刷楽譜事業が成り立ちにくく、最後まで筆写譜の伝統が色濃く残った都市でした。パソコンやプリンターがない時代、印刷譜は個人では作成困難なために、会社単位である程度厳密に管理されますし、作曲家はその会社とだけ校正について打ち合わせればよいのですが、たくさんの人間が関わる筆写譜は、ある意味野放しでした。