伊の19世紀を代表するオペラ作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディは、29歳のときに書いた「ナブッコ」の大成功によって、すでにイタリア・オペラの人気の中心にいました。アルプスの北、つまりオーストリアやドイツやフランスでは交響曲・室内楽・ピアノ作品などの器楽も人気でしたが、南の国イタリアでは、1にオペラ2にオペラ、とにかくオペラが人々の娯楽・音楽の中心でした。大きな街には必ず複数のオペラ劇場があり、劇場内にはカフェやレストランやカジノもあり、人々は、週に4、5回もオペラに通った・・といわれているぐらい、重要な「街の社交の場」でもあったのです。
「大衆を喜ばせる」工夫
そんな状況で人気を維持するためには、「大衆を喜ばせる」工夫も必要でした。ヴェルディも、初期作品は、そういった傾向のものが多かったのです。すなわち、歌手たちの名人芸的歌唱を披露させるためにストーリーの流れと関係ないところにアリアや合唱を入れたり、典型的なヒーローやわかりやすい悪役が登場し、物語はシンプルな勧善懲悪だったり、お涙頂戴の自己犠牲だったり・・といわば「ご都合主義的」なストーリーを採用したのです。
人気作曲家ゆえの激務がたたり、体調を崩したヴェルディが温泉で療養していた1846年夏、フィレンツェのペルゴラ劇場からオペラの注文を受けます。ヴェルディは、シェイクスピアの「マクベス」を題材に選びました。彼がもっとも敬愛する劇作家シェイクスピア、その作品の中でも最も簡潔で、舞台向きで、演劇的な悲劇として「マクベス」を高く評価していたヴェルディは、同時期に依頼を受けていた他のオペラを一旦置いてまで、「マクベス」に打ち込むのです。
20世紀になって復活
台本作者のフランチェスコ・マリア・ピアーヴェを叱咤激励し、台本が出来上がるそばから作曲していったヴェルディでしたが、シェイクスピアの偉大なる作品を、それにふさわしいオペラにするのだ、という気概が空回りし、あまり制作状況は順調ではありませんでした。衣装はロンドンから取り寄せてヴェネツィアのデザイナーにデザインを依頼したり、信頼するバリトン歌手に稽古の段階から細かい指示を与えたり・・とヴェルディは文字通り心血を注いで「マクベス」の完成に邁進するのですが、作品が有名かつ偉大すぎて、ひょっとしたら33歳のヴェルディには荷が重かったのかもしれません。
というのも、これは、初めてヴェルディが「大衆受けを狙う波乱万丈の血湧き肉躍る物語」から、「同じドラマではあるが、精神的な葛藤や人間の内面を描いた物語」にフォーカスをかえて作曲したものだったために、初演こそ評判となったものの、次第に単純なエンターテイメントを求めるイタリアの聴衆には飽きられてしまったのです。ヴェルディ自身、「このオペラは大成功するか、見向きもされないか、どちらかだ」と予言していました。
本国イタリアでは、半世紀以上、人気のないオペラとなってしまった「マクベス」ですが、20世紀に入って、ドイツで復活上演が行われると、その美しく、人間心理を細かく表現したアリアや合唱に改めて注目が集まり、現在ではヴェルディの傑作の一つとして、人気演目となっています。
巨匠シェイクスピア作品に挑んだ若きヴェルディは、これ以後、中期の充実した作品群を量産していくことになります。
本田聖嗣