才能の発掘に「ライブ」も「CD」も無関係
瑛人はその対極と言っていいのではないだろうか。アルバム「すっからかん」で歌われていることがそうであるように、どこにでもいる普通の音楽好きな若者。むしろうだつの上がらない、と言った方が近いかもしれない。アルバムには、そうした若者の飾らない生活感が溢れている。
家族が円満なわけでもないし財布はいつもすっからかんだし、成績がいいわけでもない若者の等身大の日々。恋をしたり失恋したり、将来のことを思い悩んだり。それでもみんなが「ハッピー」になればいいと明るく思っている。「明るさと軽さ」の説得力。「香水」もそうした日常から生まれた曲だということがよくわかる。
「香水」が爆発的な反響を呼んだこともあるのだろう。「瑛人は一発屋なのか」と冷やかしのような議論の的になったりお笑いのネタになったりもしている。それも「現象」の副産物の「洗礼」でもあるのだと思う。そういう意味では「消費」という最初の試練を受けていると言っていい。これを乗り切ることで強くなる、と思うしかない。
そうした議論についていえば、アルバムを聴いた限りでは「一発屋」という印象は持たなかった。
なぜなら、「香水」は、突然変異的に生まれた曲とは思えなかったからだ。アルバムの中の他の曲と「地続き」になっている。関連性がある。そうした曲作りの中で思いかげず誕生した傑作、ということのように思えた。つまり、そういう曲はこれからもふとした拍子に生まれるだろうな、と思えたからだ。
YOASOBIには、明確なコンセプトがある。そして、そこには「本を読まない若者」という風潮に対しての「そうじゃないのではないか」という仮説があるように思う。
確かに「本」は読まないかもしれない。でも「文字」は読む。もっと言えば「言葉」に対しては旧世代よりもナイーブな感受性を持っているのではないか。「音楽」と「小説」の「親和性」を形にすることによって、その仮説を証明しようとしているのではないだろうか。そこに新しい可能性を見つけようとしている。
新しい才能の発掘に「ライブ」も「CD」も介在しなくなった。そのことがよりフラットな状況を作り出している。その表れが「夜に駆ける」と「香水」の再生回数一億回という数字に表れているように思う。
2020年がどんな年として記録されていくのかは、「コロナ禍」の収まり方次第ということになるのかもしれない。
ただ、どういう形にせよ「CDとライブ」という従来の柱が変わってゆくことは間違いないだろう。その時、YOASOBIと瑛人がどういう形で残ってゆくのか。
これも今後の楽しみの一つということになりそうだ。
(タケ)