オーケストラ・パートだけで披露して人気に
ここで舞台はパリに飛びます。「美しき青きドナウ」が作曲された1867年5月、第2回パリ万国博覧会が開かれるのです。プロイセン憎しのオーストリアは、敵の敵は味方、ということでフランスに接近しなければなりません。16万5000フランもの大金を投資して、会場には立派な「オーストリア館」ができあがりました。当時の駐仏大使はリヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒ、かの「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたウィーン会議を主催した宰相メッテルニヒの息子でした。
これだけ力の入った「オーストリア館」でもっとも人気のあったメインのエキジビションは、メッテルニヒ大使の主催する大舞踏会でした。その伴奏に指揮者として呼ばれたのが、ヨハン・シュトラウス2世でした。ウィーンで大ヒットしている彼の作品ばかりを演奏したのです。
異国の地で、どうせドイツ語は通じないし、そもそもオーストリアを励ますパッとしない歌詞だし・・とシュトラウスが考えたかどうかはわかりませんが、彼は「合唱曲 美しき青きドナウ」の合唱を抜いて、得意のオーケストラ・パートだけで、序奏と5つのワルツ、そしてコーダからなる現在の形にして、この舞踏・演奏会で披露したのです。
ウィーンでは誰もドナウが青くなんかなくて灰色だ・・ということをみな知っているからヒットしなかった、パリの人間はドナウの本当の色を知らないからさ・・などという陰口を叩く人もいましたが、ともかく、結果は、爆発的な人気を呼び、シュトラウス本人も驚くぐらいだったそうです。これが、ウィーンに逆輸入され、人気とともに、オーケストラ版が定着することになります。
このときのパリ万博には、日本からも幕府、薩摩藩、佐賀藩が独自に出展していましたから、もしかしたら、「シュトラウス自身が指揮する『美しき青きドナウ』」を聞いた日本人がいたかもしれませんが、記録には残っていません。
ともあれ、この歴史の意外な結果として生まれた名曲のことを考えるとき、早く世界が平穏になって、万博などの国際的な催しが開かれ、そこで音楽が演奏されるような日々がやって来ることを願わずにいられません。
本田聖嗣