大ヒット作「美しき青きドナウ」はオーストリアが戦争で負けたから作られた?! 日本人がパリで聴いていたかも...意外な事実

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   ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートといえば、現在では1月1日に開催され、90か国以上に中継される日本でもお馴染みの、世界的に有名なクラシック音楽会です。

   2021年の今年は、オーストリアの感染予防のための規制が1月6日まで有効だったため、いつもプラチナチケットと呼ばれるこの音楽会の入場券は1枚も発券されずじまいでした。すなわち、80年近いニューイヤーコンサートの歴史始まって以来の「無観客演奏会」となったのです。

  • 1867年のパリ万博
    1867年のパリ万博
  • 1867年のパリ万博

初演では拍手が少なかった

   それでも、全世界で5000万人近い人がテレビを通して視聴するコンサートですが、アンコールで演奏される定番の2曲があります。1曲は、普段なら会場の手拍子とともに盛り上がるヨハン・シュトラウスⅠ世のラデツキー行進曲、もう1曲が、オーストリアの「第2の国歌」とも言われているワルツ王こと息子の、ヨハン・シュトラウス2世作曲「美しき青きドナウ」です。

   「美しき青きドナウ」は、もともと男声合唱団からの委嘱作品で、最初はなんだかパッとしない歌詞が付けられていたため、ヒットとは程遠かった・・とはこの曲を取り上げたときに書いたとおりですが、どうして、現在ではニューイヤーコンサートで必ず演奏され、「オーストリアの第2の国歌」と言われるぐらい、愛されているのでしょうか?

   それにはこんな背景がありました。1866年、帝都ウィーンを擁するオーストリアは、プロイセンと戦争を行います。オーストリアが中心となっていた「ドイツ連邦」が、脱退したプロイセンと戦争になったものですが、宰相ビスマルクのもと軍事の天才モルトケ参謀総長がいたプロイセンは、完膚無きまでにオーストリアをたたきのめします。これにより、「近代の統一ドイツという国」は南のオーストリアではなく、北のプロイセンを中心として成立することになります。

   戦争は、ドイツの成立という重要な結果を生みますが、オーストリアにも意外な影響をもたらしました。まず、意気消沈したオーストリア国民を励ますために、流行の最先端でノリにノッているワルツ作曲家ヨハン・シュトラウス2世に「ワルツ形式の男性合唱曲を」という依頼が合唱団の指揮者により行われました。もちろん、これが「美しき青きドナウ」の作曲のきっかけです。

   シュトラウス2世の演奏会はいつも拍手喝采でアンコールに次ぐアンコールとなり、オーケストラの団員が疲れてしまうほどだったそうですが、この曲の初演のときは、拍手がちらほらとしかなかったそうです。アンコールなどかかりませんでした。

本田聖嗣プロフィール
私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミエ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラ マ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。

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