1998年のNHK杯で個人総合優勝。99年には全日本学生選手権個人総合優勝、さらに全日本選手権の鉄棒で優勝を果たした米田功氏。
誰もが、初出場となるオリンピック、2000年のシドニー五輪で躍動すると思っていた。
だが、大会前のNHK杯で結果を残すことが出来ず、シドニー五輪代表を逃すことに。ここから米田氏は変わった。(インタビュアー・石井紘人 @ targma_fbrj)
シドニー五輪落選、そしてアテネ五輪で金
米田:シドニー五輪を逃したことで、私の考え方は変わりました。それまでは、いわゆるただの反抗期。「練習しなくてもどうせ結果出せばいいだろう」というスタンスでした。そして実際にやれば、できていたように思います。
そんな私は、シドニー五輪前にいつものパフォーマンスが出せなくなったのです。そうなった時に練習しようと思ったのですが、周囲から「練習するようになったの?」と言われるのが嫌で、変わるに変われなくて(苦笑)。
五輪は特別なので、もちろんそれまでよりは練習しました。ですが、急に練習したので、体が痛くなってくる。その痛みの原因は何なのか、けがなのかも分からない。休んで回復させればよいのでしょうが、自信が薄れてくる怖さもあり、休むこともできない。そうこうしていたら、完全に調子が崩れてしまいました。
五輪は、小学生時代に通っていた体操クラブの先輩方も出場していたので、「自分も将来出るものだ」と思っていました。
にもかかわらず、シドニー五輪を逃してしまって...。そして実際に五輪をテレビで見てそこで、「やっぱり努力して結果を出す人間の方が格好良い」と思うようになりました。
――それが意識改革に繋がり、2004年のアテネ五輪では男子体操日本代表の主将を務めて、団体総合で金メダル。個人鉄棒でも銅メダルに輝きました。一番印象に残っているのは、どのシーンでしょうか。
米田:団体総合決勝です。予選の方が緊張するって先輩からは言われていたのですが、私は決勝のほうが緊張しましたね。初めて全国大会に出場して、頭が真っ白になって規定違反をした時を思い出しました(笑)。
会場は満席なのですが、観客も緊張しているので、全く人がいないみたいな静けさ。雰囲気はあるのに物音はない。そのプレッシャーは最後まで消えることなくて、スタート種目のゆかでは、「ヤバイ...失敗する」と思いながら最後まで演技していました。初めての経験でした。
――そのプレッシャーの中で結果を出せたのはなぜでしょう。
米田:プレッシャーを感じていても、歩くことは出来るのと同じですね。体操競技も同じように、歩くことと同じレベルまで技術を持っていけば良いというのが持論です。私はメンタルも大切にしていますが、どんなにメンタルトレーニングしても、実力以上の力を発揮することは100%無理。それは、現在の指導に生かしています。