ベートーヴェンの誕生日は正確にはわかっておらず、教会の受洗名簿を元にした推定から、1770年12月16日とされています。今年2020年は生誕250周年、世界でこれほどベートーヴェンが愛聴されているということと、全世界がコロナ禍で苦難の年となったこと、両方とも本人が聞けば驚くかもしれません。自らも難聴と戦い、「苦難を克服して歓喜へ」というモチーフを音楽に昇華させたベートーヴェンですから、彼の音楽こそ、今年に相応しいといえるかもしれません。
現実的には、今年は「歓喜の歌」が歌われる「第九」の演奏会は、オーケストラと大人数の独唱・合唱という密を避けるために中止のところも多く、どちらかというと「換気のうた」を歌いながら窓を開ける年末・・になりました。
「3番」で大きく飛躍
今日取り上げる曲は、彼の「ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 Op.37」です。交響曲においても「第3番 『英雄』」は、それまでのウィーン古典派の響きを残す第1番、第2番から大きく変容し、ベートーヴェン独自の工夫が数多く見られる曲となっていて、彼自身も、交響曲の中でもっとも自信作である、と言い切っていますが、ピアノ協奏曲においても、第3番は、それまでの作品と比べ、大きく飛躍した内容となっています。彼は、ピアノ協奏曲を全部で5曲作曲しましたが、第3番はその中で唯一の短調作品となっています。そのハ短調という調は、交響曲「第5番 『運命』」や、ピアノソナタでは第1番を初め、しばしば重要な作品で選択される力強い調で、ベートーヴェンのお気に入りの調性の一つといっても良いでしょう。
革命的自信作を仕上げるには、さすがにベートーヴェンでも、時間がかかりました。もともとベートーヴェンは作曲家である以前に、即興ピアニスト・オルガニストでしたから、ピアノパートの作曲においては、自信があったと思われますが、「ピアノ協奏曲 第1番」を仕上げた1796年あたりから構想された第3番は、当初、自身初の交響曲となる、交響曲第1番と同じ時期の初演を目指していたにもかかわらず、その時までには第1楽章しか完成せず、結局さらにそれから3年後、交響曲第2番と同じ、1803年にやっと全3楽章が完成し、全曲通しての初演にこぎつけました(ちなみにロマン派時代の初期までは、1曲を楽章ごとに分割して演奏したり、その間に別の曲が入る、というのも当たり前の習慣でした)。
自分で弾く自作
しかし、この時期のベートーヴェンは徐々に難聴が進行していたにもかかわらず、作曲意欲は旺盛で、交響曲を初め、たくさんの作曲家としての本格作品に取り組んでいたため、ピアノ協奏曲のピアノパートは、どうやら最後まで疎かになったようです。というのも、初演時のピアニストは、ベートーヴェン自身だったからで・・・・ということは、オーケストラの音は聞こえていたわけですから、この時期のベートーヴェンは「演奏することができるぐらい、耳はまだ聞こえていた」わけですが・・・・自分で弾く自作ですから、楽譜に書く、ということが一番後回しになったようなのです。
当時は、まだ「暗譜」で弾くという習慣がありませんでした。ピアニストが演奏会で楽譜を見なくなるのは、ロマン派のクララ・シューマンや、リストが行ってからです・・・そのため、「ピアノ協奏曲 第3番」を初演するベートーヴェンの前には、楽譜がありました。ピアニストは両手を使っているので、譜面をめくる譜めくりがつくのですが、モーツァルトに師事したこともある若手指揮者のイグナーツ・フォン・ザイフリートという人でした。指揮者だから、オーケストラパートへの理解も深かったはずです。
だから、なのかもしれません。ザイフリートが目を剥いたのは、本番のステージに上がっているベートーヴェンの前の楽譜には、エジプトの象形文字のような・・とありますから古代神聖文字ヒエログリフのことでしょうか・・いわゆるイラストに近い印が、ごにょごにょと少し書かれているだけで、「ほとんど白紙」の楽譜だったのです!まるで、歌舞伎の「勧進帳」の世界。
大いに笑いこけた
まさに「勧進帳」なのは、そんな白紙の楽譜なのに、ベートーヴェンは譜めくりをザイフリートに指示するために、時々頭を振ったり、目配せをして、合図をするのです!通常の譜めくりは、演奏者の合図を待つだけでなく、譜面台の楽譜を目で追ってタイミングを図るのですが、この時の彼はさぞ困ったでしょう。白紙では、どこを弾いているかまるでわからないですし、ベートーヴェン先生は「今めくれ!」とばかりに、突然合図をするのです!まあ、譜面に書いていない、つまり頭の中の記憶だけで弾いているわけですから、譜めくりのタイミングが多少ずれても問題ない・・とも言えますが・・・。
気心知れた音楽家どうしの「勧進帳」タッグで、初演は無事に終わり、その後で、二人は大いに笑いこけた、と記録が残っていますから、ベートーヴェンはピアノ独奏パートを楽譜なしで余裕綽々で弾いてのけたわけです。ちなみに、この時は交響曲第2番の方が好評で、ピアノ協奏曲第3番は、賛否両論あったようです。
そのため、約1年後、今度は、ベートーヴェンの数少ない愛弟子、フエルディナント・リースがピアノ独奏のソリストとして、この曲を演奏するときまでには、ベートーヴェンは内容の手直しを行い、ちゃんと楽譜を書き上げたそうです。これが現在まで弾き継がれているバージョンとなります。
この時期のベートーヴェンは創作意欲に溢れ、「ピアノ協奏曲 第3番」の完成のあとは、ついに自ら「大交響曲」と書くことになる交響曲「第3番 『英雄』」の作曲に向かうことになります。
本田聖嗣