with 1月号の「令和女子のための新教養」で、小島慶子さんが「美」について論じている。題して「"美"はそんなにえらいのか」(後編)。美術というより美人の美である。
なお前編では、「誰もが自分を美しいと思えることを目指す世の中よりも、美は価値の一つに過ぎないと言える世の中の方が自由だ」というようなことを書いている。
「読みながら『小島さんはアナウンサーをしていたのだから、容姿で得をしているじゃないか』と思った人もいるでしょう。確かに、容姿が問われる仕事につけたのは、私がある程度顔立ちが整っていると判断されたからでしょう」
ここまで読んでドキドキしたのは、無意味な謙遜や建前は抜きで書き進めますよ、ついてらっしゃい、という本気が伝わるからだ。そして「ではそれと『人が外見で決めつけられ、格付けされる世の中は間違っている』と考えることは矛盾するでしょうか?」と続く。
自宅があるオーストラリアでは、小島さんも「アジア系」と括られる少数派になる。
「黄色味がかった肌の色や頬骨の張った顔立ちを醜いと感じ、バカにする人もいます」...そんな時、小島さんは傷つきながらも、胸の中でこう反論する。
〈あなたの美の基準に照らせば、私の大きな顔やくすんだ肌は醜いのだろうね。で、美しくないことが何なの? たかが美でしょう。そんなことで私を貶められると思うなよ〉
人を見た目で愚弄してもいいと思っている、その心根が我慢ならないという。
「私はその人物の卑劣さを憎み、同時に世界中にある人種差別を憎みます。その人物の人種(たとえば白人=冨永注)を憎むのでも、造形的な美を憎むのでもありません」
容姿は不当な利益?
アナウンサーの試験ではもちろん「声」も評価の対象となる。しかし、小島さんは「たまたま声がいいからアナウンサーになれたんでしょう」と言われたことはない。
顔や体形など、外見の美で得たものはなぜ「不当な利益」のように言われるのか。それは社会の大多数が視覚情報に左右されているからだと見る小島さん。「では、目の見えない人はどうなのか」と転じ、生まれながら盲目のAさんの例が紹介される。
「月がきれいとはどういうことか教えて」とせがむAさんに、母親は水を張った円筒の容器を用意した。容器に腕を入れ、丸い底を確認したAさんは「ああ、月は涼しくて、遠くにあって、丸い。きれいだ」と思う。
ちなみにAさん、女性の美しさは髪の手触りや声で感じ取るそうだ。
「二つのことがわかります。私たちは、どうしても何かを美しいと感じずにはいられません...そして美とは極めて主観的で、複雑多様な要素から成り立っていると...美は本来、人と世界、人と人を隔てるのではなく、親密にするもの。問題は、美をどう扱うかです」
そして読者へのこんな問いかけで結ぶ。
「あなたは、美と自分の関係をどうしたいですか。隷属するのか支配するのか、それともただ、感じるのか。暴力に用いるのか喜びにするのか。美は私たち自身とも、目の前の誰かとも無縁ではありません。お月見しながら、考えてみましょう」
差別ではなく共感を
元TBSアナウンサーの小島さんは、いまや複数の連載を抱える人気エッセイストとして、さらにはフェミニズムの論客として知られる。
自身の経験を交えた主張は、たとえば「女子アナ」の呼称根絶のように具体的で鋭く、昭和オヤジ的思考が抜けない諸氏には手ごわく、煙たい存在である。
本作で小島さんが言わんとするのは、「差別ではなく共感の要素として美を扱い、使いこなそうよ」ということだろう。美をよしとする価値観を人間の本性と認めつつ、それを相対化し、一面的な理解や慣習に振り回されることを戒める、そんな視点である。
鼻が高い、目元が涼しい、足が長い、胸が大きい...容姿に一喜一憂する社会を、目が見えない人の例を引いて喝破する。オヤジたちの逃げ道をふさぐ展開はうならせる。
そこから(1)何かを美しいと感じる気持ちは制御できない(2)何を美しいと感じるかは主観的、複雑多様な要素による...という結論を引き出す。
美を頭から否定しないところが、また巧みである。
本誌を含む女性誌は「美」、それも見てくれの美しさに関する情報にあふれている。その中で小島さんの論旨は異彩を放つが、それだけに脇を締め、論理的に書き進めている様子がわかる。たとえば同じ講談社の「VOCE」などで、内面を含む「女性美」を指南する齋藤薫さんの、ある意味の対極として、まだまだ活躍の場はありそうだ。
冨永 格