週刊文春(11月19日号)の「心はつらいよ」で、東畑開人さんがお金で済むこと済まないこと、さらには済まないことへの対処法を臨床心理士の視点で書いている。
話は、京都先斗町での雪の夜から始まる。筆者が京大大学院にいた頃のことだ。ある先輩が抱える面倒くさい雑用を手伝った東畑さんは、高級焼肉でもてなされた。焼肉といえば「食べ放題2000円」しか知らなかったので感激し、この先輩の雑用係で一生を終えてもいいとさえ思ったそうだ。礼を言う東畑さんに、30代後半の先輩が雪空を見上げてつぶやいた一言がさらにダンディだった。
「なあ...金で済むことは、楽やなあ」
お金では済まない別問題の存在をうかがわせる、苦みのあるセリフ。実際、先輩はそのころ離婚調停中だったことを後で知ったという。そして本題である。
40代前半の男性が東畑さんのもとへカウンセリングに訪れた。妻の不倫が分かったそうで、来談時には妻への絶望、不倫相手への怒りが交互に出現する異常な精神状態。東畑さんは投薬と休養を促し、じっくり離婚や裁判などの現実問題に対処していこうと伝えた。
「心が危機のとき、日常が変わらずグルグルと回っていると助かる。だけどそれは、彼が秘密を隠し持たねばならなかったことも意味していた。まだ幼い子どもが無邪気に笑うリビングで、同僚が家族についてのくだらない冗談をいうオフィスで、彼は普通の父親と社会人を演じ続けた」
妻は謝罪し、家庭は辛うじて守られたが、彼は相手側に1000万円の慰謝料を求めて裁判を起こす。数か月後に言い渡された結論は90万円の支払い。それが不倫の代償だった。「これはなんの値段なのか」と嘆く彼は、こんな金は粗末に使ってやれとばかり、無駄に高い腕時計に散財した。結局、何年もかかるカウンセリングになった。
「中古の心」を抱えて
「お金があれば、壊れたスマホは新品に買い替えることができる。だけど、心の中の失われたものは決して買い戻すことができない。人生とは、中古の、そして傷物の心でやっていくしかないものなのだ」
彼が不倫で受けた傷は、本当はいくらに換算できたのか。それは分からないが、以後、本人は他者を傷つけるのではなく、傷ついた自分のことを考えるようになったという。
「90万円には意味があったと思う。社会的な硬い手続によって金額を確定することが、何が金で済まないのかを明確にしたからだ...(彼は)金で済まない自己の部分に目がいくようになった...悲しくなるのは決して悪いことではない。心が動き始めた証拠である」
東畑さんは続ける。世の不幸には、かつて先輩が言った通りお金で解決できるものが多い。同時に、お金では済まないこともある。過去は変えられないし、失われたものは戻らない。そんな時、人はお金の代わりに時間を使う。長い時間が痛ましい過去を「私という歴史」の一部へと変えてくれることもあるからだ。
かの相談者は結局、90万円で買った高級時計を一度も身に着けなかったそうだ。
「あのとき彼は、時間を動かしたかったのではないか。止まっていた時計の針を前に進めたかったのではないか。そういう彼がいたと思うのだ」
心の薬剤師
大手カード会社のテレビCMが、プライスレス(お金では買えない=大変貴重な)という言葉を盛んに流したのはいつだったか。世の中には値踏みを拒むような物事も確かにあって、それらを壊したり、失くしたりした場合が「お金では済まない」状況である。命とか愛とか信頼とか、大切な人とか、その人との至福の思い出とか。
東畑さんが説くのは、そうした際の心の対処法だ。すなわち「お金の代わりに時間を使うべし」と。時が癒してくれること、あるいは歳月にしか癒せないことはある。それは、感情の動物である人間だけに天が与えてくれた処方箋にもみえる。臨床心理士の仕事は、その意味で「心の薬剤師」に近いのかもしれない。
ライターとしてカウンセリングは「ネタ」の宝庫だろうが、守秘義務もあるから書き飛ばすわけにはいかない。最大限プライバシーに配慮したうえ、一般化できる教訓や成功(失敗)例をうまく抽出して再構成しなければならない。ただし、具体性をある程度残さないと信憑性が弱まるし、そもそも読み物として面白みに欠ける。
その点、上記作はなかなか良いあんばいで、書き手としての才を感じさせた。
冨永 格