初演は戒厳令下のパリ
予定では、曲が仕上がった1914年8月末の翌週には、近くの街、バイヨンヌで徴兵検査を受けて入隊するはずでした。しかし、先週書いたように、「体重が2キロ足りなくて兵役にそぐわない」と判断されてしまいました。戦地に赴くあてが外れたラヴェルは、母親を連れて11月にパリに戻り、この曲を、楽譜商ジャック=デュランにピアノ独奏と、フル編成のトリオで2回、内々で聞かせ、彼を感激させました。
ピアノ三重奏曲の正式な初演は、パリのサル・ガヴォーで1915年1月28日、戒厳令のため通常なら20時30分に始まるコンサートの開始時刻を19時に早めた「独立音楽協会」のコンサートでドビュッシーやフォーレやデュカの作品と一緒に行われました。フォーレやサン=サーンスが設立した「フランスの音楽」を発展させるためのこの協会のコンサートも、これを最後に1917年まで、2年間もの中断となるぐらい、戦雲が身近に感じられるようになった時期でした。現在のコロナ禍のパリと同じく、22時以降は夜間外出禁止令が出ていて、メトロの運行も止まったのです。
ラヴェル自身は、1915年3月の誕生日の直後、ついに、輸送兵として従軍せよ、との知らせを受け取ります。ヴェルダンの激戦地に実際に向かうのは更にその翌年、ということになるので、「ピアノ三重奏曲」は戦地へ向かう前の最後の曲にはなりませんでしたが、(「楽園の3羽の美しい鳥」を含む「3つの歌」などを作曲しています)この曲、とくに第1楽章には、彼の祖国や、ルーツや、ファミリーといったものへの万感の想いが込められており、戦地へ赴く直前の彼の「覚悟」をひしひしと感じるのです。
フランスの11月11日は、第一次世界大戦休戦記念日として、今でも祝日となっています。
本田聖嗣