「遺書」のようなもの
ラヴェルは、フランスが宣戦布告した8月3日の直後、8日に入隊を志す手紙を弟に送ったあと、「そのことに反対しない、自分も志願する。」という弟の返信を14日に受け取り、月末の29日には、楽譜出版社のジャック・デュランに手紙を送り、明日の30日には「ピアノ三重奏曲」を完成させ、数日かけて清書して出版用手稿譜をつくりあげ、来週にはサン・ジャン・ドリュズ近郊の大きな街、バイヨンヌに入隊志願に向かう、と書いています。その後、印刷された校正刷りにも精力的に演奏用の書き込みを行い、彼は本当に5週間でいつもの5か月分ぐらいの仕事をしたのです。
他の企画・進行していた作品の作曲は中断したものもありましたが、ラヴェルはこの「ピアノ三重奏曲」だけは、多少強引な第4楽章だったとしても、出征前に完成させるつもりだったのです。このことからも、この曲は、ラヴェルの「覚悟であり、遺書」のようなものではなかったか、と考えられるのです。
それには、もう1つの「状況証拠」があるのですが、それはまた来週にしましょう。
バイヨンヌの街で兵隊に志願したラヴェルですが、「体重が2キロ少ない」という理由で入隊することは叶いませんでした。そのままサン・ジャン・ド・リュズに戻り負傷兵の看護などをしていましたが、結局、11月にはパリに戻ることになり、そこで、兵隊に志願しやすくなるための自動車免許を取得したり、「遺書」として書き置いてゆくはずの「ピアノ三重奏曲」の初演に立ち会ったりすることになります。
本田聖嗣