ラヴェルの1914年と「ピアノ三重奏曲」(前編)

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夏のバカンスでサン・ジャン・ド・リュズに

   まず時間の経過を振り返ります。

   1910年代、フランス楽壇でのラヴェルの名声は絶頂に上り詰めていました。1911年頃から、それまでの第一人者だったドビュッシーの人気を超えた、と米国のジャーナリストが書き残しているぐらいですから、傍目にも明らかに、ラヴェルはフランスの音楽界を牽引する存在だったのです。作曲依頼や編曲依頼は途絶えることなく、ラヴェルは、自分の芸術的センスに忠実に、マイペースで作品を生み出していく状態でした。

   フランス人は、必ずまとまったバカンスを取ることで有名ですが、ラヴェルも夏は決まって故郷のバスク地方に出かけていました。パリを離れて、スペイン国境にほど近い大西洋を臨む海辺のリゾート、サン・ジャン・ド・リュズに長期滞在するのです。ここは、ラヴェルが生まれた小さな街、シブールと湾を挟んで対岸の街でした。敬愛する母がバスク出身のため、ラヴェルは、夏のバカンスでは、人気の地中海方面には行かず、いつも大西洋岸のサン・ジャン・ド・リュズを訪れていたのです。

   1914年も、6月下旬にはサン・ジャン・ド・リュズに到着していました。6月30日の友人宛ての手紙には、バスク地方のペロタと呼ばれる独特の壁当て球技や、闘牛、花火などの地元ならではの楽しみを羅列すると同時に、スペインとフランスにまたがるバスク地方の紋章である「ザスピアクバット」という名のピアノ協奏曲スタイルの曲と、「ピアノ三重奏曲」の作曲に取り掛かっていることが書かれています。

   サン・ジャン・ド・リュズの海開きは、7月1日です。海辺でラヴェルと母と、友人一家で撮影した写真が残っていますが、バカンスを楽しんでいるらしい、リラックした表情がうかがえます。

本田聖嗣プロフィール
私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でピルミエ・ プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目CDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラ マ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。

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