夏のバカンスでサン・ジャン・ド・リュズに
まず時間の経過を振り返ります。
1910年代、フランス楽壇でのラヴェルの名声は絶頂に上り詰めていました。1911年頃から、それまでの第一人者だったドビュッシーの人気を超えた、と米国のジャーナリストが書き残しているぐらいですから、傍目にも明らかに、ラヴェルはフランスの音楽界を牽引する存在だったのです。作曲依頼や編曲依頼は途絶えることなく、ラヴェルは、自分の芸術的センスに忠実に、マイペースで作品を生み出していく状態でした。
フランス人は、必ずまとまったバカンスを取ることで有名ですが、ラヴェルも夏は決まって故郷のバスク地方に出かけていました。パリを離れて、スペイン国境にほど近い大西洋を臨む海辺のリゾート、サン・ジャン・ド・リュズに長期滞在するのです。ここは、ラヴェルが生まれた小さな街、シブールと湾を挟んで対岸の街でした。敬愛する母がバスク出身のため、ラヴェルは、夏のバカンスでは、人気の地中海方面には行かず、いつも大西洋岸のサン・ジャン・ド・リュズを訪れていたのです。
1914年も、6月下旬にはサン・ジャン・ド・リュズに到着していました。6月30日の友人宛ての手紙には、バスク地方のペロタと呼ばれる独特の壁当て球技や、闘牛、花火などの地元ならではの楽しみを羅列すると同時に、スペインとフランスにまたがるバスク地方の紋章である「ザスピアクバット」という名のピアノ協奏曲スタイルの曲と、「ピアノ三重奏曲」の作曲に取り掛かっていることが書かれています。
サン・ジャン・ド・リュズの海開きは、7月1日です。海辺でラヴェルと母と、友人一家で撮影した写真が残っていますが、バカンスを楽しんでいるらしい、リラックした表情がうかがえます。