作曲家が完成させた「手稿譜」と、出版社から印刷譜として発行される楽譜の間には「校訂者」という存在がいます。ピアノ作品ならば、校訂者は、作曲家が書き込まなかった指使いを指示したり、ペダルの踏み方を補ったり、また手稿譜が複数ある場合は、「どの楽譜が一番作曲家の意図に忠実なのか?」を解釈したり、とその役割は少なくありません。
そのため、ピアノの演奏を熟知しているピアニストである場合が多いのですが、ショパンのピアノ作品の楽譜の中で、フランスのデュラン社から発行されているものは、フランスを代表する作曲家として知られているクロード・ドビュッシーが校訂した、となっているのです。これは少し異例なことなのです。なぜなのでしょうか?
第一次世界大戦が影響していた
確かに、ドビュッシーはピアニストでもあり、作曲家だけでは生活が苦しいので、ピアニストとしてステージに立ち、自作を含めた演奏を行なっていたのは真実ですが、それにしても、レアケースです。「デュラン版のショパンは校訂がドビュッシー」という事実を知らずに、現地フランスでこの楽譜を見つけた時には私も驚きました。1990年代に手に取ったその楽譜は他国のものに比べて紙質が悪く、すぐにボロボロになりそうでしたが、買い求めました。指遣いなどは、それまで見慣れていた版に比べて、確かに独特で、「ピアニスト・作曲家」ドビュッシーの独自の視点が感じられました。
そして、同じデュラン社から出ているシューマンの作品は、作曲家ガブリエル・フォーレ の校訂、メンデルスゾーンの作品は、モーリス・ラヴェルがそれぞれ全て校訂しているのです。確かに三人とも、オルガニスト、ピアニストとしての活動もしていましたが、彼らだって、自作のピアノ曲は、自作自演でなく、他のプロのピアニストに頻繁に任せているのです。果たして彼らは「ロマン派のピアノ作品を校訂する」適任だったのでしょうか? どうみても、「大作曲家がさらに過去の大作曲家の楽譜を校訂する」というのは、少し異色です。
これには、こういう事情がありました。これらの楽譜の出版が着手されたのは1915年でした。前年の1914年から、欧州にとって初めての大戦争、第一次世界大戦が始まっていたのです。
本当に奇跡的だったタイミング
それまでも、普仏戦争などでフランスとドイツは干戈を交えていましたが、今度は他国をも巻き込んだ、スケールが違う大戦争でした。
当然の如く国境をまたぐ流通は全てなくなり、楽譜出版で一日の長があったドイツからは全く楽譜が入ってこなくなりました。そのため、デュランは、改めて、ショパン、シューマン、メンデルスゾーンといったロマン派の巨匠の鍵盤楽器作品を、当代超一流の作曲家たち・・いずれもデュランとは知り合いでしたので・・・に校訂を依頼して、出版することにしたのです。戦時中でも、ピアノが1台あれば演奏できる鍵盤作品の楽譜は売れると計算していたのかもしれません。
そして、1915年というタイミング――。ドビュッシーは、大戦が終わる1918年に病気で亡くなり、ラヴェルは同年に輸送兵として従軍して体を壊して除隊しているぐらいですから、本当に奇跡的だったといえますが、三人とも快く引き受けたのです。国境が閉じた・・という事情によって、この「巨匠が過去の巨匠の作品を校訂する」という「デュラン版」が世の中に送り出されたのです。
ドビュッシーの校訂したショパンの楽譜には、他の複数のエディションにはない強弱記号などが書き込まれています。つまりそれは、「ショパンは書き込んでないのだが、ドビュッシーがピアニストとして、作曲家として、ここはこうあるべきだと判断した」強弱と考えられます。
こういった、いわば「恣意的」な校訂がなされているために、ショパンの楽譜としては、あまりメインで使われることのないデュラン版ですが、コロナ禍によって、一時的に独仏国境も閉じられた2020年、およそ100年前の国境閉鎖によって生まれた「奇跡の校訂版」をちょっと感慨深く眺めています。
本田聖嗣