暑さ寒さも彼岸まで、と昔から言われていますが、2020年も、8月があのような猛暑で9月の残暑も厳しかったのに、秋分の日をすぎると見事に気温が低下して、朝晩は「涼しい」より「寒い」と感じる日々になってきました。まだまだ日中は晴れると気温は上がりますから、1日の寒暖差が激しくなり、体調を崩しやすくなります。今年は体調管理を厳格にしなければいけないですから、こまめな温度調節や手洗いなど、気をつけて過ごしたいものです。
冬の気配を感じる気温になってきたので、今日は、ショパンの「木枯らし」を取り上げましょう。この曲の正式名称は、「ショパン作曲 練習曲集 Op.25の 第11番」というもので、「エチュード」とよばれる、ピアノを学習するものにとって、必要な技巧を身につけるための、テクニカルな曲となっています。
最も愛好されている作品たち
ピアノを学習された方なら、必ずといってよいほど課題に出される練習曲ですが、他にはツェルニーのものなどが有名です。ショパンの作品がそれらの「時として無味乾燥な」練習曲集と大きく違うのは、技巧のトレーニング的側面を持ちながらも、1曲1曲が芸術的にとても素晴らしい曲となっていることです。そのため、音楽的モチベーションを損なわずに練習できるため、本格的にピアノを学習する方なら、必ず弾く曲集であり、ショパンの作品の中でも、最も愛好されている作品たち、といえると思います。
しかし、技巧的にも、音楽的にも、大変高度なことが要求されるので、私も随分と練習に苦労した思い出があります。
ショパンの練習曲はOp.10の12曲と、Op.25の12曲、の2つの「練習曲集」、それに3曲からなる「新練習曲」とよばれるものがありますが、一般的に「ショパンのエチュード」というと、Op.10と25の、合計24曲を指すことがほとんどです。この12×2=24という数字は、バッハが史上初めてすべての長調と短調で「前奏曲とフーガ」を作曲し、揃えて曲集とした「平均律」に端を発する数字で、「音楽の父」バッハへのオマージュが感じられます。
ちなみに、この「練習曲集」を書いたショパン自身が、1日の始まりに必ずピアノに向かって弾いたのがバッハの平均律だったそうで、彼にとっての「練習曲」でもあったわけです。
「外科医を呼んでおかないと弾けない」
音楽は音楽でしか表せないことを表現するために言葉は必要ない・・・という信念を持っていたショパンは、自作に愛称はつけていません。しかし、広く世界中で親しまれ、ときには楽譜出版においてタイトルがついている方が売れゆきが良い、などの理由で、周囲が勝手に題名をつけてしまいました。「木枯らし」もそんな1曲です。
練習曲として、速くて細かいパッセージで右手が鍛えられるようになっていますが、その動きがあたかも厳しい冬の木枯らしに乱舞する落ち葉のようすを描写しているようで、この題名は広く知れ渡り、認知されています。
Op.10の最後の第12曲は「革命」という愛称がつけられていて、こちらは主に左手の練習曲となっていますが、同じように厳しい曲想から、「ロシアに蹂躙された祖国ポーランドを思って書いた」と伝えられています。「木枯らし」も曲想が似ているので、同じ文脈で語られることも多く、映画などでは、祖国の反ロシア蜂起失敗のニュースを聞いてショパンが激情とともに弾くのは「革命」ではなく「木枯らし」というシーンも見かけます。本当のところは、それが作曲の動機なのかは、いまとなってはわかりません。
しかし、確かなことは、「木枯らし」を含むOp.25の練習曲集をショパンが書いたのは1835年から1836年頃のパリであるということです。
1830年頃、活躍の場を求め、ショパンは祖国ポーランドを離れて父の出身国フランスの「花の都」にやってきていたのでした。1833年にパリで出版されていたOp.10の練習曲集が、当初は「難しすぎて指がもつれるので、外科医を呼んでおかないと弾けない」などと批評家に酷評されたりもしました。しかし、大都会パリの大きな会場では、大きい音を出すのに苦労するショパンは自分が演奏家に向いていないことを自覚していて、作曲により比重をおいていたために、次々に傑作を連発してゆき、年齢的にはまだ20代と若いのに、次第に周囲に認められるようになってきた・・そんな時期でした。
「ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト対決」を横目に
少し敬遠気味のコンサートピアニストとしての活動、そして、作曲家、それにもう一つショパンの生活の大きな柱が、生徒たちを教えることでした。経済的には、これが一番の中心、といってもよいわけですが、亡命ポーランド貴族の子弟などが多くパリに暮らしていたので、高名なショパンの門前には希望の生徒が殺到したといわれています。事実、かなり裕福な生活が送れていたようです。
「生徒たち」のためにも、練習曲集は必要でした。一方、1835年のパリの社交界最大の話題は、スイス生まれで、ウィーンでショパンもその演奏を聞いたことがあったヴィルトゥオーゾ・ピアニスト、ジギスムント・タールベルクのパリ・デビューでした。「3本の手を持つ」と言われた彼の華麗なテクニックは、パリの聴衆を魅了したのです。
そうなると、黙っておられないのが、ショパンをして、「あなたは人前で演奏することが運命づけられています。たとえ聴衆を魅了できないときでも、彼らを圧倒することができる力をお持ちですから」と言わしめた、パリに君臨する元祖ヴィルトゥオーゾ・ピアニストにして作曲家、フランツ・リストでした。ちなみに彼らはほぼ同年代です。リストは、恋人マリー・ダグー伯爵夫人とスイスを旅行中でしたが、噂を聞きつけ、急ぎパリに戻りましたが、タールベルクとはすれ違いでした。
リストもまた演奏会を開き、「聴衆が熱狂のあまり失神する」と形容された大成功を収めます。彼らは結局1837年に「ピアノ対決」を行い、「タールベルクは世界一のピアニスト、リストは世界唯一のピアニスト」という玉虫色な判定結果・・おそらく両者に配慮したのでしょうが・・となります。
そんな、「パワーあふれるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト対決」を、自分には全く関係ないこと・・とショパンは横目で見ながら、本当に弾きこなすのはものすごく難しい「練習曲集」をこつこつと作り続けていたのです。
Op.10の練習曲集は、リストに献呈され、「木枯らし」を含むOp.25は、マリー・ダグー伯爵夫人に献呈されています。ヴィルトゥオーゾ競争が過熱する中で、ショパンがその美学を少しもブレさせることもなく作曲した「練習曲集」は、今でも世界中で演奏され、愛されています。
本田聖嗣