「ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト対決」を横目に
少し敬遠気味のコンサートピアニストとしての活動、そして、作曲家、それにもう一つショパンの生活の大きな柱が、生徒たちを教えることでした。経済的には、これが一番の中心、といってもよいわけですが、亡命ポーランド貴族の子弟などが多くパリに暮らしていたので、高名なショパンの門前には希望の生徒が殺到したといわれています。事実、かなり裕福な生活が送れていたようです。
「生徒たち」のためにも、練習曲集は必要でした。一方、1835年のパリの社交界最大の話題は、スイス生まれで、ウィーンでショパンもその演奏を聞いたことがあったヴィルトゥオーゾ・ピアニスト、ジギスムント・タールベルクのパリ・デビューでした。「3本の手を持つ」と言われた彼の華麗なテクニックは、パリの聴衆を魅了したのです。
そうなると、黙っておられないのが、ショパンをして、「あなたは人前で演奏することが運命づけられています。たとえ聴衆を魅了できないときでも、彼らを圧倒することができる力をお持ちですから」と言わしめた、パリに君臨する元祖ヴィルトゥオーゾ・ピアニストにして作曲家、フランツ・リストでした。ちなみに彼らはほぼ同年代です。リストは、恋人マリー・ダグー伯爵夫人とスイスを旅行中でしたが、噂を聞きつけ、急ぎパリに戻りましたが、タールベルクとはすれ違いでした。
リストもまた演奏会を開き、「聴衆が熱狂のあまり失神する」と形容された大成功を収めます。彼らは結局1837年に「ピアノ対決」を行い、「タールベルクは世界一のピアニスト、リストは世界唯一のピアニスト」という玉虫色な判定結果・・おそらく両者に配慮したのでしょうが・・となります。
そんな、「パワーあふれるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト対決」を、自分には全く関係ないこと・・とショパンは横目で見ながら、本当に弾きこなすのはものすごく難しい「練習曲集」をこつこつと作り続けていたのです。
Op.10の練習曲集は、リストに献呈され、「木枯らし」を含むOp.25は、マリー・ダグー伯爵夫人に献呈されています。ヴィルトゥオーゾ競争が過熱する中で、ショパンがその美学を少しもブレさせることもなく作曲した「練習曲集」は、今でも世界中で演奏され、愛されています。
本田聖嗣