「外科医を呼んでおかないと弾けない」
音楽は音楽でしか表せないことを表現するために言葉は必要ない・・・という信念を持っていたショパンは、自作に愛称はつけていません。しかし、広く世界中で親しまれ、ときには楽譜出版においてタイトルがついている方が売れゆきが良い、などの理由で、周囲が勝手に題名をつけてしまいました。「木枯らし」もそんな1曲です。
練習曲として、速くて細かいパッセージで右手が鍛えられるようになっていますが、その動きがあたかも厳しい冬の木枯らしに乱舞する落ち葉のようすを描写しているようで、この題名は広く知れ渡り、認知されています。
Op.10の最後の第12曲は「革命」という愛称がつけられていて、こちらは主に左手の練習曲となっていますが、同じように厳しい曲想から、「ロシアに蹂躙された祖国ポーランドを思って書いた」と伝えられています。「木枯らし」も曲想が似ているので、同じ文脈で語られることも多く、映画などでは、祖国の反ロシア蜂起失敗のニュースを聞いてショパンが激情とともに弾くのは「革命」ではなく「木枯らし」というシーンも見かけます。本当のところは、それが作曲の動機なのかは、いまとなってはわかりません。
しかし、確かなことは、「木枯らし」を含むOp.25の練習曲集をショパンが書いたのは1835年から1836年頃のパリであるということです。
1830年頃、活躍の場を求め、ショパンは祖国ポーランドを離れて父の出身国フランスの「花の都」にやってきていたのでした。1833年にパリで出版されていたOp.10の練習曲集が、当初は「難しすぎて指がもつれるので、外科医を呼んでおかないと弾けない」などと批評家に酷評されたりもしました。しかし、大都会パリの大きな会場では、大きい音を出すのに苦労するショパンは自分が演奏家に向いていないことを自覚していて、作曲により比重をおいていたために、次々に傑作を連発してゆき、年齢的にはまだ20代と若いのに、次第に周囲に認められるようになってきた・・そんな時期でした。