一曲目がローリングストーンズ
「GS」が世の中に肯定的に受け入れられたかというとそうでもない。むしろその逆だった。NHKは「長髪はご法度」と門前払いだったし教育委員会は、GSのコンサートへの参加を禁止、学校はエレキを認めなかった。遊園地の公演に殺到した少女たちに怪我人が出たこともあり「困ったもの」というのが世間の風潮だったと言っていい。
音楽環境も整っていない。
ライブハウスはもちろん今のようなコンサートホールすら出来ていない。彼らが演奏するのは客席が100名にも満たないジャズ喫茶やゴーゴークラブ。後はカラーテレビが普及し始めたテレビの歌謡番組。そこで歌わされるのは職業作家が書いたシングル曲ばかり。バンドを結成した最大の衝動だった「洋楽」は歌わせてもらえない。
「やりたい音楽」と「やらされる音楽」のギャップ。同じような曲、同じような恰好、同じような名前。「柳の下のヒット狙い」は粗製乱造につながる。ピークだった68年だけで100近いバンドがデビューしている。タイガースのオリジナルメンバーの加橋かつみが、脱退した69年には、すでに衰退の兆しが見え始めていた。
とは言え、日本で最初のバンドのムーブメントは、多くの個性的なバンドや新しい才能を輩出した。
先日、マモル・マヌー(D・V)、ルイズルイス・加部(B)が相次いで亡くなった、日本で最初にR&B、ブルースロックを得意としていたザ・ゴールデンカップスは最後までシングル曲をステージで歌わなかった。萩原健一がボーカルだったザ・テンプターズもストーンズが十八番だった。鈴木ヒロミツがボーカルだったザ・モップスは現代音楽とのコラボレーションも試みている。メンバーそれぞれがミュージシャンや数々の名曲を残した作曲家としても輝かしい実績を残しているブルー・コメッツ、スパイダーズは言うまでもない。作曲家の筒美京平、鈴木邦彦、村井邦彦、作詞家の山上路夫なども「GS」がなかったら世に出られなかったかもしれない。
時代の変わり目。「GS」は、60年代後半にアメリカやイギリスで始まったニューロック、サイケデリックロックなど「ビートルズ以降」の波に押し流され「シンガー・ソングライター」の台頭は70年代のフォークブームにとって代わられた。
1971年1月24日、日本武道館で行われたザ・タイガースの解散コンサート「ビューティフルコンサート」は、自然消滅するかのようにひっそりと幕を閉じるバンドが殆どだった中で、最後を飾る事の出来た唯一の例だろう。
武道館のビートルズ公演から5年。単独公演として行われた武道館最初のコンサートであり、史上初のライブアルバム。冒頭でMCから「Say after me,タイガース!」と英語で呼びかけられた客席の当惑したような空気が時代を物語っている。
シングルヒットした代表曲を網羅しつつ、一曲目がローリングストーンズの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」であり、沢田研二の涙の言葉とともに歌われる「アイ・アンダスタンド」は、イギリスのバンド、ハーマンズ・ハーミッツの曲だ。
49年前、平均年齢23歳のバンド少年たちの真実の姿がここにある。
(タケ)