タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
これはもう「昔話」と言ってしまっていいのだと思う。 その昔、「GS」と呼ばれるムーブメントがあった。でも、その頃にはそんな洒落た英語があったわけではなくて、最も使われていた言葉を使えば「ブーム」ということになる。
1960年代の終わりから70年代の初めにかけて音楽の在り方を変えた二つの革命があった。ひとつは、「自作自演」。つまり作詞家や作曲家が作った歌ではなく、誰もがギター一本で自分の思ったことを歌にする。シンガー・ソングライターの登場があった。
もうひとつが「バンド」である。
60年代の初め、イギリスのビートルズやローリングストーンズに代表される一連のロック・バンドが世界の音楽を席巻した。「GS」は、そんな世界的潮流の日本的な形だった。「グループサウンド」の略称である。その最大の人気バンドがザ・タイガースだった。
叫びとは違う少女向けのサウンド
ザ・タイガースは沢田研二(V)、森本太郎(G)、岸部修三(B)、瞳みのる(D)のオリジナルメンバーと、69年に脱退した加橋かつみ(G・V)の代わりに参加した、先日なくなった岸部シロー(当時)という5人組だ。全員が京都出身。そのメンバーになったのがビートルズ来日の66年。武道館の来日公演の客席にいたのが、デビューする前の彼ら、ザ・ファニーズだった。その時に、京都会館で行われた「全関西エレキバンドコンテスト」で優勝した賞金で作った制服を着ていたという話は有名だ。演奏したのはローリングストーンズの「サティスファクション」である。
大阪のライブハウス、当時は音楽喫茶と言っていた「ナンバ一番」に出ていた彼らを見て「東京に来ないか」と誘ったのが内田裕也だった。
ただ、彼らによってGSが始まったわけではない。その前に、ザ・ブルーコメッツとザ・スパイダーズという人気バンドがいた。
すでにカントリーやジャズの世界で活動していた彼らが日本語のオリジナルの歌を演奏するようになるのもビートルズがきっかけだった。タイガースがデビューした67年2月、ブルーコメッツとスパイダーズはすでにヒット曲も持っており、下地は出来上がっていた。そこに点火、社会現象までに広がる起爆剤になったのがザ・タイガースだった。
タイガースの最大の特徴は、「品」だったと思う。沢田研二に代表されるメンバーが醸し出す雰囲気はもちろんある。
それに輪をかけたのが、父親が童話作家だった作詞家・橋本淳が描く少女趣味的なメルヘンとファンタジー、後にアニメ「ドラゴンクエスト」の音楽で新時代を開く作曲家・すぎやまこういちが作るあか抜けたメロディー。「僕のマリー」「モナリザの微笑み」「銀河のロマンス」「花の首飾り」など、その二人のコンビが書いた一連のシングルは彼らのイメージを増幅、10代の少女たちに爆発的に支持された。製菓会社が初めてバンドをCMに起用したのもタイガースだったからだ。
それらの曲も演奏はエレキバンドである。ローリングストーンズの「サティスファクション」やビートルズの「ツイスト&シャウト」のような若者たちの直接的な叫びとは違う少女向けのバンドサウンド。それがその後の「GS」のステロタイプとなった。