地下鉄駅に漂う匂い
集英社のモード誌SPUR(シュプール)は1989年の創刊。女性のファッションやライフスタイルに関する情報を発信している。中心読者の20~40代は香水の主要購買層でもあり、千早さんの文章の前後ではシャネルなどの高級商品が紹介されている。
北海道出身、41歳の千早さんは2008年に『魚神』(小説すばる新人賞、泉鏡花文学賞)でデビュー、直木賞候補にも二度選ばれた。
匂いと記憶の関係については、硬軟いろんな論考がある。匂いを手がかりに、前後の思い出が芋づる式に蘇る...誰しも経験することだろう。
私はブリュッセルに再赴任した1998年末、こんな「特派員メモ」を書いた。
〈低い空、冷たい雨。肩をすくめて薄暗い地下鉄の階段に駆け込めば、駅の売店からワッフルの甘い香りが流れてくる。三年ぶりに赴任したこの街は、三年前とそっくりそのままの感触で迎えてくれた〉
感傷的なクサイ書き出しだが、実際、職場に近い地下鉄シューマン駅に漂う砂糖とバターを焦がしたような匂いは、初の海外勤務をウルウルと思い出させる「ひきだし」だった。言葉に四苦八苦しながら、家族ぐるみで異文化と格闘した日々が蘇るのだ。
千早さんは、編集部から与えられた「香水と旅」というテーマを、香りと記憶を巡る個人的体験に落とし込み、巧みに再構成している。プロの物書きだから当然だが、コロナ禍との絡みや結語を含め、よくまとまった随筆だと思った。彼女がロンドンで買った香水がどんな匂いなのかが気になるが、読者は想像力を膨らませるほかない。
五感の中でも、ものや場の匂いを嗅ぎ取る行為は奥が深い。ある日突然、嗅覚や味覚が消え失せるというコロナの症状は、その意味でも罪深い。
冨永 格