今年(2020年)は、第二次世界大戦終結75周年ということで、世界中で追悼・メモリアル行事などが予定されていましたが、年初よりの新型コロナウイルスの世界的流行のため、各国首脳陣も集まるわけには行かず、各地で縮小または中止、となっています。
今日は、世界大戦では戦勝国でありながら、途中では、かなりギリギリの状況まで追い込まれた英国の勇ましい曲を取り上げます。ウィリアム・ウォルトンの「スピットファイア前奏曲とフーガ」です。
1940年7月、幕は切って落とされた
最終的には連合国側の一員として勝利に名を連ねた英国ですが、1940年の8月は、かなり危うい状況に追い込まれていました。1939年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって開始された戦争は、戦車と近接支援の航空機を組み合わせた、いわゆる「電撃戦」でまたたく間にドイツが周辺の国を降伏に追い込みました。開戦前にチェコ・オーストリアはすでにドイツに飲み込まれ、戦争になってからポーランド、ベネルクス諸国、北欧のデンマーク、ノルウェー、バルカン諸国、そして隣の大国、第一次世界大戦では戦勝国だったフランスまでもが1940年6月にドイツの軍門に下ります。
尻馬に乗ってイタリアは枢軸国として参戦、欧州は、ドイツと不可侵条約を結んでいたソビエト連邦と、中立のスペイン・ポルトガル・スイスを残してほぼ全て枢軸国側となり、英国は、ただ一国でドイツと対峙しなければならなくなったのです。米国がモンロー主義により、欧州の戦争から距離を置き、参戦がのぞめない状況で(最終的には日本の真珠湾攻撃により、欧州戦線にも参戦することになります)、英国は本当に危機的状況でした。
ただし、英国の周囲には海がありました。陸の電撃戦により、緒戦で勝利を重ねたナチス・ドイツ軍でしたが、英国に侵攻するには、上陸作戦が必要です。そのためには、ぜひとも制空権が必要でした。船や、上陸したばかりの陸軍は、空からの攻撃に弱かったのです。
英国上陸作戦の前段階として、空軍による英国の攻撃が企画され、1940年7月、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」の幕が切って落とされます。すでに、フランスやベネルクス諸国を救うため、英国空軍は大陸に派遣されて消耗を重ねていて、ドイツ軍の戦闘機・攻撃機・爆撃機に対抗して空を守る戦闘機は、わずか500機ほどしかありませんでした。一方、機体は大増産に入っていてある程度目処がついていたものの、損耗したパイロットの補充は簡単にはいきませんでした。
それでも英国は、英連邦諸国であるニュージーランド、オーストラリア、カナダ、南アフリカ、ローデシア、ジャマイカからの操縦士を掻き集め、また国は降伏したが英国に逃れたフランス、チェコスロバキア(当時)、ベルギー、ポーランド空軍の搭乗員たちまでも機体に乗せて送り出したのです。
チャーチル首相の有名な演説
ドイツが想像していたより遥かに進んだレーダーを使った早期警戒システムなどのおかげで、英国空軍は迫りくるドイツ空軍の大群とよく戦いました。あらゆる種類の英国機が空を守るために飛び立ったのですが、主力は、単発単座戦闘機である、スーパーマリン・スピットファイアと、ホーカー・ハリケーンの2機種でした。総撃墜数は、少し開発が先行していたため、スピットファイアより機数を多く揃えることができたハリケーンのほうが多かったのですが、性能的にハリケーンより高性能だったスピットファイアは、特にドイツのメッサーシュミットBf109などの戦闘機との戦闘に駆り出され、大きな戦果を上げたのです。
7月から始まった大航空戦は、10月まで続き、英国上空の制空権をついに握ることのできなかったナチス・ドイツは英国上陸作戦を諦めます。結果的に、それが西から東に目を向けることになり、不可侵条約を一方的に破ってソ連に侵攻したナチス軍は、運命の東部戦線を戦うことになります。
1940年8月20日、度重なるドイツ空軍の波状攻撃に耐え、常に自軍の損害を上回る打撃を相手に与え続けた英国空軍ファイターコマンドを讃えて、チャーチル首相は国会で有名な演説をします。
「およそかつて人類の闘争の場において、かくも多数の者が、かくも多大なる恩恵を、かくも少数の者に負うたことはなかった!(Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few)」
この「かくも少数の」英国戦闘機パイロットを指した言葉からとった「The first of the few」という映画が、1942年に封切られます。米国映画「風と共に去りぬ」では俳優として出演していた、レスリー・ハワード監督の要請で、この映画に音楽をつけたのは1902年生まれで、ほぼ独学で作曲を学び、30代から映画音楽も手掛けていたウィリアム・ウォルトンでした。
「負けなかった大英帝国」のアイコン
米国では「スピットファイア」、日本でも「迎撃戦闘機スピットファイア」とタイトルが翻訳されているこの映画は、バトル・オブ・ブリテンの主役、スーパーマリン・スピットファイア戦闘機の開発物語を主任技師レジナルド・ミッチェルと友人のテストパイロットの交流を通して描く、という内容です。ウォルトンは、その映画に、英国を鼓舞するエルガーの「威風堂々」風の前奏曲と、クライマックスのスピットファイア戦闘機が工場で続々と量産されていくシーンに、「フーガ」をつけました。音楽は大評判となり、サウンドトラックから抜粋して、ウォルトンは純粋な管弦楽曲として、同年末には「スピットファイア前奏曲とフーガ」を完成させます。
実際のバトル・オブ・ブリテンの主役の機体はどちらかというと、ライバル機であるホーカー・ハリケーンでしたが、設計の新しいスピットファイアは、第二次大戦の期間中、常にエンジンや翼や機体のアップデートをして第一線機として戦い続け、英国空軍R.A.F.の象徴となります。
「負けなかった大英帝国」のアイコンとなったスピットファイアと、ウォルトンの音楽は、今でも英国人の誇りとともに、全世界の人々に愛されています。スピットファイアの機体は今でも稼働機が保存され、シルバーに塗装された1機が、つい先日も世界ツアーの途中日本を訪れたりもしています。同様に、「ジョンブル魂」が感じられ、勇気がもりもり湧いてくるウォルトン「スピットファイア前奏曲とフーガ」は、なにかと「第二次大戦以来の危機」と形容されることの多い今年こそ、しみじみ聴きたい1曲なのかもしれません。
本田聖嗣