週刊新潮(7月30日号)の「生き抜くヒント!」で、五木寛之さんが失くし物についてあれこれ綴っている。探すか、探さないか。
最近、5~6年愛用していた薄いグレーの縁なしサングラスを失くしたそうだ。もともと粗忽で、物をよく失くすという五木さん。万年筆や老眼鏡といった商売道具を含め、買ったその日に行方不明になった物もあるらしい。若い頃に失くした経験から、もう何十年も財布は持たず、現金も新幹線の切符もポケットに入れている。
「物が失せるというのは、どことなく不思議なところがある。長く使っていた物で、そろそろくたびれてきたので取り替えようかな、と思っていると、突然、なくなったりする。物にも心があるんじゃないかと、ちょっと怖い気持ちになることもあるのだ」
かつて弟さんと車で走っていて、五木さんが「この車もそろそろ替えどきだな」とつぶやいたら「車にきこえるよ」とクギを刺された。車中で買い替えの話をすると、決まって走りの調子が悪くなるということだった。
筆者はここで、野生の動物が死期を悟り、群れからそっと姿を消す話を挟む、長年愛用してきた物であればあるほど「そんなふうに消えるのかもしれない」と。
海外では何度かカメラを失くし、パスポートを盗まれた五木さんだが、運転免許証だけは身元証明用に大切にしていた。「この本は私が書いたんです」と文庫を見せたところで何の役にも立たない、自由業者の宿命。ペンクラブや文芸家協会の会員証には写真がついていないそうだ。だから運転をやめた後も、古い免許証を常に携帯していたという。
持ち主から離れたがる
そんな話でつないで、五木さんは有形のモノから無形物に話題を転じる。「人生の落とし物、という言葉がふと頭の隅に浮かぶ」と。
「思い返せば随分いろんな物をなくしてきた。物でない物を、どれだけ失ってきたのか。考えてみると思わず気持ちが萎えるところがある」
「都合の悪い記憶は、おのずと遠ざかっていく。そしてやがて忘れ去ってしまう。人は自分に都合がいい記憶だけを大事に残しておくものなのだ」...他方「忘れたいと努力しても、心の隅にこびりついて消えない思い出もある」
そもそも電話が嫌いで、携帯電話を持ち歩かない五木さん。「嫌っている物は、たぶん持ち主から離れたがるに違いない」から、ケータイを携帯しても失くす恐れが大きいと踏んでいる。「どこかで消えようと隙をうかがっているんじゃないかと...」
「五十年以上、いや、もっと長い年月、私のそばにいてくれている物がいろいろある...心が通いあっているような気がして突然なくなったりすることはあまりない」
さてサングラス、ついに見つからなかったそうだ。買い直すのも面倒だし、時節柄のマスクと組み合わせるのは如何なものか、と考える老作家である。
「そのうちどこからかひょいと出てくるのではあるまいか。探さないことにしよう」
急に惜しくなって
五木エッセイを引用させていただくのは早くも4回目。うち3回はこの「生き抜くヒント!」である。老境とでも言おうか、どこか浮世離れしながら、現実ともそこそこ切り結ぶ。その枯れ具合がほどよい。奇をてらわない端正な筆致も読みやすい。
80年以上生きていれば、失くした物も多いだろう。個人的には、半世紀以上も五木さんの「そばにいてくれる物」のほうに興味が向く。物たちも幸運である。
大作家と競うつもりはないが、私もこの2カ月ほどで同じ生活用品を続けて二つ失くした。スーパーなどで使う携帯用のエコバッグである。
フランスの大手小売チェーン「モノプリ」の品で、値段は1ユーロ(約120円)だったか。5年前、東京帰任時にまとめ買いしたやつを、レジ袋の有料化を前に使い始めたのだ。
丈夫で軽い、たぶんポリエステル製で「MONOPRIX」のロゴが入り、畳むとスマホ大になる。ひとつ目は空色、次が赤。どちらも気がついたらウエストポーチから消えていた。
エコ生活が嫌いなわけではないから、向うから離れていったとは思いたくない。ネット通販で調べてみたら、あのモノプリに「パリジェンヌ御用達のお洒落スーパー」と説明がつき、ひとつ1000円以上する。にわかに惜しくなった。
冨永 格