ユネスコ「世界記憶遺産」に
1607(慶長12)年から1811(文化8)年まで12回に及ぶ朝鮮使節の招聘(しょうへい)は、江戸幕府八代吉宗、九代家重、一〇代家治など将軍の襲職(しゅうしょく)祝賀などに際しても行われた。全国の大名を動員する国をあげての行事とし、徳川政権の威光を知らしめることとなった。江戸城の聘礼(へいれい)行事に加えて、日光へ参詣したこともあった。朝鮮通信使の多彩なメンバーは、日本の学者や文人、僧侶、医者、画家らとも盛んに交流し、民衆が異国文化にふれる機会となった。
こうした日朝関係において、仲尾が着目するのは儒学者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の功績だ。対馬藩に仕官し、朝鮮外交を担当する重い役目を任じられた芳洲は、釜山へ留学して朝鮮語を習得。後に朝鮮語通訳養成所を開設し、後進の育成に尽くした教育者でもある。
在任中には二度、朝鮮通信使の外交文書を解読・通訳する職務である真文役(しんもんやく)として対馬から江戸までの往復を随行し、朝鮮国と幕府との折衝役を務めた。朝鮮文人たちとの交流を通して、独自の国際感覚を備えていたという。
「芳洲は朝鮮国を知ろうと徹底的に勉強し、彼なりの朝鮮認識を深めました。豊臣秀吉の侵略戦争に対しても、朝鮮兵士らの鼻切りを行うなど『暴悪』(ぼうあく)の証拠であると明確に批判している。日本では近代まで秀吉の朝鮮侵略は偉業と捉えられてきましたが、芳洲の批判は日本人の歴史観を問うていたのです」
日朝の国交回復の橋渡しとなった「朝鮮通信使」。戦前から日本にも関心をもつ学者は僅(わず)かながらいたが、戦後に目を向けたのはまず在日コリアンの人たちだった。
「貧しい家庭に育つ在日コリアンの子どもたちは、学校へ行っても差別されるような生活の中で荒(すさ)んでいく。同胞の子どもたちに自尊心を持たせ、生きる力を与えたいと考えた学者や教育者が顕彰に取り組んだのです」
やがて80年代頃から日本の研究者の中でも日朝関係への関心が少しずつ高まり、仲尾も本格的に研究を始めた。朝鮮通信使の軌跡をたどるほどにその偉業に魅せられ、生涯かけて取り組むことを覚悟したという。
さらに朝鮮通信使資料の調査が進む契機となったのは2012年、韓国の財団法人釜山文化財団からユネスコ「世界記憶遺産」への申請を提案されたことだ。日本のNPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会に打診があり、2014年に日韓双方で学術委員会が発足。仲尾は日本側の委員長に選任された。
ユネスコ「世界記憶遺産」に登録された著名なものとしては、「アンネの日記」「ベートーベン第9交響曲の自筆楽譜」「マグナ・カルタ」などがあり、日本では藤原道長(ふじわらのみちなが)の「御堂関白記」(みどうかんぱくき)や「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)などが選ばれている。
登録基準は厳しく、第一に「真正性」が問われ、写本は対象にならない。また「世界的重要性」「希少性」があり、安全な場所で保存管理されていること。所蔵者の承諾も欠かせない。両国の学術委員会がそれぞれ資料を調査したうえで協議を重ね、選定する。日本では対馬から下関、京都、日光まで広域にわたる実地調査を行い、外交記録、旅程の記録、文化交流の記録を3年がかりでまとめた。
2016年3月30日、「朝鮮通信使に関する記録」111件(333点)を日韓の民間団体がパリのユネスコ本部へ共同で申請。国際諮問委員会の審査を経て、翌年10月31日未明に「世界記憶遺産」の登録が公表された。その報を受けた仲尾は感無量だったと振り返る。
「ユネスコ記憶遺産に登録されたことで朝鮮通信使の事跡は日韓の国内で『市民権』を得ることができ、ゆかりの地では地域住民の理解も一段と進んだ。なにより朝鮮通信使が果たした平和外交の普遍的価値を世界の人々と共有できたことが良かったと思っています」