江戸時代、朝鮮王朝と徳川幕府の間で繰り広げられた壮大な外交があった。釜山から渡海して対馬へ、さらに江戸まで1000キロをこえる行程を1年近くかけて往復する総勢500名ほどの使節が来日した。「朝鮮通信使」と呼ばれる使節団は200年以上にわたり12回日本へやってきたのだ。
その歴史を日韓双方の研究者たちが検証した「朝鮮通信使に関する記録」が、ユネスコ「世界記憶遺産」に登録されたのは2017年10月31日のことだ。
徳川家康が二度と侵略しないと明言
公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団から助成を得て、朝鮮通信使資料の再検証に携わった京都芸術大学歴史遺産学科客員教授の仲尾宏(なかおひろし)は、歴史的意義をこう語る。
「世界史における日本の歴史の位置づけとして、大変大きい前進と考えています。江戸時代には『鎖国』を国是(こくぜ)とし、対外関係は一部を除いて閉鎖されていたという観念が幕末以降に広まった。しかし、『鎖国令』が発動されたことはなく、史実の誤りであることは明白です。日本と朝鮮国との間には正式な外交ルートがあり、200年間も戦争がなかった。朝鮮通信使とは平和の使節でもあったのです」
そもそも「朝鮮通信使」の来日はいかにして始まったのか。
仲尾によれば、その端緒は豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮侵略、「文禄・慶長の役」の戦後処理にあったという。ちなみに韓国では、任辰倭乱(イムジンウェラン)・丁酉再乱(チョンユジェラン)と呼んでいる。
この侵略戦争が悲惨を極めたのは、無数の民衆を巻き込んだこと。明確な戦意をもてなくなった日本軍将兵によって、放火、略奪、鼻切りなどの残虐行為が行われ、数万人が日本へ連行された。秀吉の病死後、日本軍は全面撤退に終わる。国交が途絶えた日朝関係が再び動き出したのが徳川政権下だった。
「徳川家康と朝鮮国王第十四代の宣祖(ソンジョ)の決断が大きかったと思います。日本側は対馬藩が朝鮮との貿易再開を切望し、朝鮮側は徳川政権の真意と国内情勢の探索をすすめることにした。そこで義僧兵として日本軍と戦った経験のある松雲大師惟政(ソンウンデサユジョン)が対馬へ派遣され、国交回復は日本側の態度次第であると述べました。京都の伏見城で家康との会見が行われ、家康は二度と侵略はしないと明言した。松雲大師は日本へ拉致連行された朝鮮人被虜(ひりょ)の人々の送還を要求し、幕府も誠意を尽くすと約束します。その後も対馬藩による国書偽造などの問題はあったものの、最終的に朝鮮国王が日本への使節派遣を決定したのです」
1607(慶長12)年3月、最初の朝鮮使節団が日本の土を踏んだ。対馬から大坂(大阪)、京都を経て、江戸へ到着。一行の総人数は504名といわれる。これ以降の通信使も500名近い人数に及んだが、なぜこのような大使節団になったのだろう。
往時の記録をたどると、正使、副使、従事官には高級官僚にあたる文官が選ばれ、日本側との交渉や漢詩文の応酬、筆談などに備えて学官なども同行。上級の随員には多くの従者がついた。さらに画家、写字官、歌舞音曲(かぶおんぎょく)の名手を揃えた軍楽隊も参加していた。
「朝鮮側には、国王の国書を徳川幕府に伝達するという外交上の任務だけでなく、礼儀を尽くした使節団とすること。また自国の優れた文化を披露できる人材を帯同(たいどう)し、文化交流したいという意図もあったようです」(仲尾)