CREA 6-7月合併号の「●●と▲▲と私」で、コラムニストのジェーン・スーさんが、自分を過小評価するのはやめようと、全女性の背を押している。自己肯定のススメだ。
コラムは「インポスター症候群」の説明で始まる。自分の成果について、どうしても「私には実力があったのだ」と満足できない精神状態、思考癖のことらしい。
「たまたま運がよかったからだとか、分不相応だとか、そういう風に考えてしまう...そりゃあ世の中、ひとりの力で成し得ることばかりではありません...しかし問題は、インポスター症候群に陥りやすいのが、女性とマイノリティというところ」
ここで実例が示される。ジェーンさんの長年の友人に、30年にわたりアカデミー賞を観察し、独自に賞の行方を予想している女性がいる。趣味とはいえ、これが実によく当たり、全24部門のうち21を的中させた年もあったそうだ。
「彼女の口から語られる受賞法則やエピソードはとても面白く、本にまとめたら、多くの人を楽しませるに違いない」...そう思ったジェーンさんは昨年、本人に出版を勧めてみた。ところが、彼女は「こんな法則は、映画好きなら誰でも知っている」「これを面白いと思う人なんて、そう多くはないはず」とにべもない。
「私なんかが」「こんなもの」「〇〇なんて」といった発言...「私の周囲では女ばかりが使います。一方、男友達に『あなたはこれが得意だから、あれやってみたら?』と勧めて『俺なんかが』と断られたことはほとんどない」...たいていの男は得意げに様々なアイデアを返してくるし、興味がない時はハッキリそう言われるという。
なぜならインポスター症候群ではないから、というのが筆者の見立てである。
女は控えめがいい?
ジェーンさんは、女友達に色んなことを勧めまくっているらしい。しかし、たとえば「それじゃなくて、これならやりたい」と切り返してきたのはひとりだけだという。
「これ、結構厄介ですよ。女は控えめなほうがいいって刷り込みを社会から受けた我々は、いつまで経っても自信満々になれないばかりか、己の可能性も信じられなくなってしまう。はっきりNOが言えないのも、問題っちゃ問題だし」
「控えめなサポート役」は誰かに強制されたものではないとしたうえ、筆者は最後に、女性たちの奮起を強めの表現で求めている。
「沁みついた奴隷根性のシミ抜きは、自分でやらなきゃ誰がやる。できるかどうかじゃなくて、やりたいかやりたくないか。そこを曖昧にしておけば好感は持たれるかもしれないけれど、あなたに好感を持った人は、あなたを幸せにしてくれるわけじゃないのですよ」
ちなみにインポスター症候群の実例として文中で紹介された友人は、結局アカデミー賞に関する本を出し、重版もされたという。
「ほらね、自己評価なんてあてにならないんだから」
同性を突き放して
「●●と▲▲と私」は不思議なタイトルだ。毎回、伏せ字のところに言葉が入る。今回は「謙遜と可能性と私」。謙遜のつもりで選んだ言葉の奥底に自分への過小評価は潜んでいないか、それがあなたの潜在能力や可能性を摘んでいないか...そんな問いかけだろう。
総じて女性の自己評価は低い、という主張については、まあそうかなと思う。内助の功、女房役といった言葉があるように、とりわけ日本女性は長らく男性の社会的活躍を裏で支える役回りで、それが標準的な正しい生き方とされてきた。
筆者はこれを「社会から受けた刷り込み」「沁みついた奴隷根性」と表現する。結果、女性は「自信満々になれないばかりか、己の可能性も信じられなくなる」と。そのうえで男の側を責めるのかと思いきや、シミ抜きは自分でやりなさいと女たちを突き放す。
「男に媚びるような生き方」を嫌悪していると思われるジェーンさん。低い自己採点に甘んじ、できるのにしない同性たちが歯がゆくて仕方がないのだろう。
確かに、世の男性や仕組みを変えるより、女性自らが変わるほうが手っ取り早い。女が変わるということは、社会の半分が変わるということだから。
冨永 格