声さえあれば歌える歌、修練が必要な楽器
そのため、彼らも歌を歌うときに見るものは、まず「歌詞」が必要で、メロディーを知ろうとするのには、歌詞の周りに小さな印をつけた程度、で満足していたのです。古代ギリシャや古代ローマにあった「簡単な楽譜のようなもの」とはこれで、あくまで歌詞が主体、その言葉の周辺に「ちょっと高く」とか「低い音で」とか「ここは長く」というような印をつけたものだったのです。
ただしこの「楽譜のようなもの」は、その歌を知っていることが前提のメモのようなものです。全くその音楽を知らない人にとっては、歌詞を知ることこそできるものの、メロディーを知るにはあまりにも情報不足の代物でした。そのため、共通の文化圏であった古代ギリシャや古代ローマ帝国が滅びてしまうと、後に残らなかったのです。
一方で、器楽の場合は、ちょっと複雑でした。歌のように「必ず1つの音だけを出す」とは限りませんし、声さえあれば歌える歌と違って、楽器から音を出すのにはある程度の修練が必要です。現代でも同じで、ギターを弾くにも、ピアノを弾くのにも、フルートを吹くのにも、ある程度の練習と、場合によってはレッスンが必要なはずです。
そのため、「楽器を弾く人のための楽譜的なもの」は、古代中国にも、古代メソポタミアにも、古代インダス文明にも、もちろんギリシャやローマにも、存在しました。「タブラチュア」と分類されるこれらは、現代のギターのための「タブ譜」・・・もちろんこれも「タブラチュア譜面」の省略語なのですが・・・と同じ役割をしていて、たとえば、「ギターの指板のどこを押さえればこの音が出ますよ」という指示を直接与えるものです。楽器の音の出し方にフォーカスしているので、「この高さの音を、このテンポで、これだけ長く演奏してください」という楽譜が持っている通常の機能は持っていません。つまり、この種の譜面も、「曲をあらかじめ知っていることが前提」なのです。
音楽に国境がある世界・・・同質の文明社会の中で演奏される音楽では、即興性の重要さと、この種の「みんな知っている曲だから、メモ程度で良いよね」というコンセンサスが成立していたので、「これを読めさえすれば音楽が再現できる!」という、「楽譜」が発明される可能性がほぼなかったのです。
確かに、「楽譜を正確に読めて演奏できる人だけがカラオケができる」なんて世界であって欲しくないですね。歌は気持ちよく歌いたいものです。
本田聖嗣