週刊SPA!(4月28日号)の「ドン・キホーテのピアス」で、鴻上尚史さんが演出家と役者の「戦い」について書いている。欧米と日本ではその様子がかなり異なると。
外国、多くは欧米の演出家がしばしば来日する。日本人俳優を演出し、日本語の作品を発表するためだ。「彼らと知り合い、親しくなると、ふだん、彼らが絶対に言わないことを聞いたりします。それは『日本人俳優はものすごく演出しやすい』ということです」
残念ながら、演技が上手いという意味ではないらしい。
例えば「そこで急に大声になって」と頼む。欧米の俳優ならまず理由を尋ねてくる。
「反抗しているとか、文句を言っているということではなく、ごく自然に動機を聞いているのです。で、納得できる理由があれば大声で言うし、納得できない理由だと言えないと演出家に答えるという、ごくシンプルな展開になります」
大声で言ったら面白いよ、観客は必ず笑うから...そんな指示では俳優は納得しない。俳優(役柄)の「気持ち」とは何の関係もないからだ。他方、相手が離れたので自ずと声が大きくなるはず、といった理由なら「なるほど」となる。では、役者が何と言おうがここは大声のほうが絶対にウケる、と確信する演出家はどうするか。
鴻上さんは、そこからが腕の見せ所だと続ける。
「『君は急に嬉しくなったんだ』とか...大声になる理由を『発明』するのです。そして、俳優が『分かった』と納得してくれればシーンは演出家の狙い通り生き生きしたものになる...欧米では、こうやって演出家と俳優は交渉し、『戦い』ます」
楽園のような現場
同じような状況で、日本の俳優のほとんどは演出の理由も聞かずに「はい分かりました」と答えるそうだ。これが「演出しやすい」理由である。
「力のない演出家、未熟な演出家からすると、楽園のような現場です。俳優の気持ちではなく、簡単に演出家の都合を優先してくれるのです」
親しくなった鴻上さんに、正直に「演出しやすい」と打ち明ける演出家たちは、仕事がスムーズで助かると喜んでいるわけではない。むしろ逆だ。
ある英国人の演出家は、「大声で」の指示にすぐ従った役者に問い返した。「なぜ大声なの?」。俳優はキョトンとして「今あなたが言ったから」...「どうしてそんなに簡単に自分の気持ちを手放して、演出家の気持ちになれるのか。あなたは自分の気持ちで生きてないのか? 『まったく理解できない』と彼は嫌悪の表情で言いました」
「演技をするということは、その役の気持ちになるということです。人間を演じるわけですから、その人物の感情をずっと生きます。その時、突然『演出家の気持ち』に切り換えられるメカニズムが分からないということです」
日本人俳優の対応は、「目上の気持ちに寄り添うこと」を良しとする日本的思考が背景と鴻上さんは考える。「芝居を作るということは大変なことなんだから、批判とかしてる場合じゃない」と思って従順になる、異議があっても胸に納めてしまうのだと。
超えられぬ上下関係
演出家も役者もその道のプロだから、よほどの新人でもない限り、自分の考えや手法がある。老若男女は関係ない。映像作品でも舞台でも、自己主張のぶつかり合いが撮影現場や稽古場に緊張感を満たし、文字情報のみの脚本に生気を与え、肉づけしていく。
ただ現実には、大御所の演出家と若手俳優の間には超えられない「上下」の関係がある。自身も著名な劇作家、演出家である鴻上さんの真意は、欧米の同業者と同じく「ちゃんとぶつかろうよ」ということではないか。ことさら現場をギスギスさせる必要はないが、真剣勝負を重ねてより良い作品にしたい、異論があるならその場で言ってくれ...と。
日本の「楽園」的な現場では演出家も役者も鍛えられず、ひいては作品のレベルも高まらない。そんな、業界人としての危機感もありそうだ。
「演技とは役の気持ちになること」...鴻上さんの考えは演劇人のイロハだろう。まじめに役づくりに努める俳優なら、演出家に100%服従するはずがない。
単純には比べられないにしても、鴻上コラムを読んで「デスクと一線記者」の関係に思いを馳せた。どちらの立場も経験したので自信を持って書いてしまうが、もめながら、時には怒鳴り合いの末に出稿した記事のほうが、総じて出来はいい。
冨永 格