フランス7月革命で街に出るように
本当に体調も崩してしまったリストは、1828年ごろから、文字通り部屋から出なくなります。パリの社交界には「リスト死亡説」まで流れる始末でした。幼い頃から神童として人前で喝采を浴びてきて、青年期から大人になって挫折を味わい消えてしまう・・というパターンは多いのですが、17歳の多感なリストも、その瀬戸際にいたのかもしれません。
しかし、天はリストを見捨てなかったからでしょうか、彼の周囲、すなわちフランス・パリでは、エキサイティングなことが起こります。1830年7月、フランス7月革命が起こるのです。生涯に渡って政治的というより宗教的だったリストは、革命の内容を必ずしも把握していなかったかもしれませんが、彼は一端の革命家気取りで、街に出るようになります。ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」に習って「革命交響曲」的なものを書こうとし、まだ未熟だったため、作品としては完成しませんでしたが、後年の交響詩につながる作曲手法を身につけます。
民衆の革命によって、立憲君主制となったフランス。パリはエネルギッシュな都会となり、その後もリストにエネルギーを供給し続けます。すなわち、同じく革命家気取りだった作曲家、ベルリオーズと知り合いとなり、彼のエネルギッシュな「幻想交響曲」に刺激を受け、翌年には、ヴァイオリンの魔神、ニコロ・パガニーニの超絶技巧の演奏に接して雷に打たれたように感動し、「ピアノのパガニーニになる!」と決心し、さらに翌年には、パリに現れたポーランドの天才、ショパンとも友人になります。
すっかり、パリの社交界に復帰したリストは、音楽家としても人間としても一回り、大きくなりました。まだまだ作曲家としては駆け出しだったので、この時期の作品は上記革命交響曲を始めスケッチだけだったり、お蔵入りになったものも有るのですが、生涯に渡って2度大きな改定をし、代表作となった「超絶技巧練習曲」の初版も作曲するようになりました。
社交家で人気者であったリストにもあった「お籠り期間」。そして、それは確実にその後の彼の人生の糧となっています。今は、全世界で「籠もらなければいけない」時期となっていますが、いつか、外に自由に出ることができるようになったときに、より良い時間を持つために、読書や思索や練習の時間としたいものです。
本田聖嗣