自分の新しい境地を開いた傑作ピアノソナタ
そんな時期に作曲された曲の一つが、ピアノソナタ第8番「悲愴」Op.13です。ベートーヴェンのソナタは、後世の人間が題名を勝手につけたものが多く、「月光」や、「テンペスト」や「熱情」などがそれに当たりますが、「悲愴」だけは、自筆譜は失われているものの、初版に「悲愴大ソナタ」という題名が付けられているので、おそらくベートーヴェン認可の「公式の題名」と思って間違いないでしょう。
音楽家として、悪くなる一方の耳の疾患を抱えて、「悲愴」な気分は当然だったでしょう。しかし、この時期の友人へ当てた手紙では、「この運命に打ち勝つ」とか、「自分の新しい音楽を作り上げて世に出したい」という決意表明のようなことが書かれています。
そして、間違いなく、その成果として、「悲愴ソナタ」は作曲されました。ウィーンの師でもあるハイドンや、1度しか会ったことはないが、敬愛していたモーツァルトという先輩が作り上げたソナタという形式は踏襲しているものの、冒頭には、暗い情念を叩きつけるようなゆっくりな序奏部を備え、その後は、ほとばしるような激しいパッセージの連続である第1楽章、一転して、慰めのあふれる第2楽章、悲劇が次々と通過していくようなロンド形式の第3楽章、と形式も斬新なら、そのサウンドは「今まで誰も聞いたこともない新しいエネルギッシュな音楽」でした。
出版された当時は、あまりにも斬新で、保守的な音楽家たちからは「でたらめな音楽」と評されていた、とベートーヴェンにも才能を評価された24歳年下のプラハ出身のピアニスト、イグナーツ・モシュレスが若き頃のエピソードとして書き残しています。彼自身は、禁止された「悲愴ソナタ」の楽譜を密かに手に入れ、これぞ新しい音楽、と興奮し、後にウィーンに出て、ベートーヴェンに会いにいくことになります。
もちろん、ベートーヴェンが苦難を乗り越えて、自分の新しい境地を開いた傑作ピアノソナタ「悲愴」は、人々に広く評価され、現代でも、ピアノ音楽を代表する曲として世界中で演奏され、親しまれています。
おそらく、ベートーヴェンは、進みゆく難聴から、人前から姿を消し、籠もって自分を見つめながら楽譜に書き記していったはずです。彼の若さと才能は、見事に苦難に打ち勝ち、この後、斬新な傑作を次々と生み出す時代がやってくるのです。
本田聖嗣