死後10年先までリリースを計画
彼が「ナイアガラ」でやろうとしていたのは、「ノベルティソング」。時には「コミックソング」とも呼ばれるユーモアに富んだ歌だ。ヒットチャートに流れるような歌と言うより遊び心のあるポップミュージック。例えば、「サイダー'73、'74、'75」に代表されるCMソングや中南米などのリズムや日本古来の音頭をミックスしたリズムの曲。CMソングがそうであるように一つの曲の長さを変えたりリズムを違えたりという「バージョン違い」の面白さを最初に伝えたのが彼だ。
その一方で、若手ミュージシャンを世に送り出すというプロデューサーの功績もある。「ナイアガラ」レーベルの第一作が山下達郎のバンド、シュガーベイブだった。70年代、80年代と二作出ている「NAIAGARA TRIANGLE」は、山下達郎、伊藤銀次、佐野元春、杉真理を抜擢したものだった。アマチュア時代のシャネルズをレコーディングに呼んだりもしている。
ただ、そうした活動が広く支持されていたかというとむしろ逆だ。彼の「CMソングをレコードにしたい」というアイデアは、全てのメジャーなレコード会社からは拒否され、唯一、発売元になったのが、大瀧詠一が最も避けたかったフォークソングで人気になったエレックレコードだった。「スタジオに新しい機材を入れたい」とエレックが倒産した後に契約したコロムビアとは年に4枚という過酷な条件に苦しめられることになった。
その頃にレコーディングされた音源も、新たに手を加えて「バージョン違い」として何度となく再発売されている。
そういう意味で、彼の名前を最初に知ったのが81年のアルバム「A LONG VACATION」だったという人が多いのも自然な事だろう。はっぴいえんどの松本隆と8年ぶりに組んだアルバムの曲の多くが「ナイアガラ」時代に陽の目を見なかった曲に手を加えたものだった。60年代のアメリカンポップスの膨大な情報量を下地にして大瀧=松本の二人が作り出した日本語のポップスが何と美しかったことか。チャートは2位。ミリオンセラーとなった。「ナイアガラ」時代のアルバムチャートの最高が77位だったことを思うと、いかに劇的だったかがわかる。2年後の「EACH TIME」はチャート1位を三週間続けた。
80年代の大瀧詠一の印象の強さは、松田聖子や薬師丸ひろ子、森進一やラッツ&スターに書いた曲もある。松本隆とのコンビは、二人にしか作れない名曲を残している。
特異なのは、ここからでもある。
新作アルバムは83年の「EACH TIME」以降出ていない。シングルやCM、ドラマなどの曲を散発的に発表することでしか表立った活動をしていなかった。
その一方で、アメリカンポップスや日本の歌謡曲の研究に没頭しているようにも見えた。誰も試みたことのない膨大な「日本とアメリカ」の音楽史。もはやその成果を見ることが出来ない、というのが大きな文化的損失だと思ったのは筆者だけではないだろう。
更に、彼は亡くなった時にすでに10年後のリリースまで計画済みだったという。一年後に出た初のオールタイムベストアルバム「Best Always」も、その後に出ている様々なアルバムも全て生前に練られていたという。
ここまで自分の音楽人生を長期的に構想していたアーティストも彼だけではないだろうか。
来年は「A LONG VACATION」の発売40周年。その記念盤の内容というのもすでに10年前に本人からの指示があったのだそうだ。来年を楽しみにしたいと思う。
人の命には限りがある。
でも、音楽は生き続ける。
(タケ)