新型コロナウィルスによる感染症の爆発的な拡大で、全世界の約半分の人が外出制限を受けているという、信じられない事態が起こっています。特にクラシック音楽発祥の地である欧州の状況がひどく、「音楽の母国」であるイタリアの状況は、少しずつ改善の兆しが見えてきたものの、まだまだ危機的な状態で、予断を許しません。
クラシック音楽の長い歴史の中では、病に悩まされた作曲家が大勢います。医学が未発達な時代、劣悪な衛生環境の中で移動が多い商売ですから、当然かもしれません。今日はその中でも、代表的なモーツァルトのエピソードを取り上げましょう。
200キロほどの避難旅行
モーツァルトは「神童」として、幼いときから父親に連れられ、馬車と船しかない時代、欧州を股にかけて、現代でも大変な旅程をこなして各地を移動していたわけですから、さまざまな病気にかかりました。彼の早逝は、成長期にかかった病気が一つの遠因だったかもしれません。
1767年、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、11歳になったばかりの少年でした。現代の日本で言えばまだ小学校5年生・・なわけですが、6歳にしてすでにウィーンの宮廷でマリア・テレジア女帝の御前で演奏を披露して絶賛されたキャリアを持ち、一人前の音楽家として少しでもよい仕事を得ようと、父親と「売り込み中」でした。
もちろん、まだ先人たちから学ぶことは多く、直接先輩音楽家に師事をしたり、その人達の作品を編曲したりして勉強も怠っていなかったのですが、一方では作曲の注文をこなしていく「プロの音楽家」でもあったのです。周囲はこんな子どもが本当にまともな作曲ができるのかといぶかしみ、一つの部屋に閉じ込めて作曲させた・・というようなエピソードも伝わっています。
この年、マリア・テレジアの12番目の子、皇女としては9番目のマリア・ヨゼファ・フォン・エスターライヒが、ナポリ・シチリア王フェルディナンドと結婚する予定と発表されました。婚姻政策で力を増していったハプスブルク家にとって婚礼の儀式は重要で、そこには音楽もたくさん必要とされます。作曲の受注ができないかと、父親レオポルドにつれられて、姉ナンネルと、少年モーツァルトは故郷のザルツブルクから帝都ウィーンに旅立ちます。9月のことでした。
ところが、「人が集まると流行が拡大する」・・というのは、まさに現在新型コロナウィルス感染症で我々が経験していることですが、諸外国からもたくさんの人の往来があった帝都ウィーンでは、天然痘が大流行するのです。今回の新型コロナウィルスも身分の別け隔てなく感染するといわれていますが、この時、あろうことか「新婦」のマリア・ヨゼファが天然痘の犠牲となり10月15日に急逝します。フェルディナンドは結局その妹のマリア・カロリーナと結婚することになります。しかし、それは後の話で、現地ウィーンで皇女マリア・ヨゼファのために歌曲などを作曲していたモーツァルト一家は、結婚の式典はとりあえず中止になるし、天然痘はさらに勢いを増すし・・ということで、一時退避を決めます。行き先は、当時は帝国領内でしたが、現在ではチェコ・モラヴィア地方のブルーノを経由してオロモウツ(ドイツ語ではオルミュッツ)でした。200キロほどの避難旅行です。
ドイツ風の4楽章構成の堂々たる作品
10月末にはオロモウツについたものの、残念ながらというか、心配されていたとおり、まずは少年ヴォルフガングが、そして次に姉ナンネルが、天然痘にかかってしまいました。過酷な旅を子どもたちにさせるレオポルドは、薬草や滋養のあるスープのレシピなどの知識もあり、二人の子を懸命に看病したはずですが、旅先でもあり、医療も未発達な時代、特にヴォルフガング少年は危険な状態になります。熱に浮かされうわ言を言うようになり、目が一時的に見えなくなった、と記されていますから、まさに命の危険があったといえましょう。「神に祈るしかない」というモーツアルト一家の当時の気分は、治療薬もワクチンもない新型ウイルスに悩まされている現代の我々の気持ちと通じるものがあるかもしれません。
ちなみに、この時のモラヴィア地方は昆虫とネズミの大発生に悩まされていた、という記録が残っています。コロナ禍の現在、アフリカから中国にかけてバッタの大群が移動している、というニュースと不思議に重なります。
今回の新型ウイルスも全世界で「本人の免疫頼み」の状態ですが、この時まだまだ若かったモーツァルトの免疫力は、病気を上回ることができました。天然痘の痘瘡が剥がれるようになってきてから熱も下がり、彼は奇跡的に回復したのです。
12月下旬にはすっかり回復して、オロモウツを出発し、帰路もブルーノに立ち寄って演奏会を開き(おそらく心細くなってきた旅費を稼ぐためだったかもしれません)、そこで年を越してから、翌年1月10日、吹雪のウィーンに一家は戻ります。再び、「売り込み活動」を再開しなければなりません。
ウィーンで披露されたのが、少年モーツァルトの「交響曲 第7番 ニ長調 Kv.45」でした。完成されたのはウィーンですが、おそらく避難旅行中から作曲されていたはずの作品です。演奏時間は全体でも12分ほどという可愛らしい交響曲ですが、メヌエットの第3楽章を持つ、ドイツ風の4楽章構成の堂々たる作品で、モーツアルトの交響曲としては初めてトランペットとティンパニが使われています。
天然痘という疫病から命からがら生還し、改めて帝都ウィーンで自分の才能を発揮していこうとした少年モーツァルトの、生命力あふれる活気が感じられる曲です。まだまだ修行中の初期作品のため、演奏機会は後期の交響曲に比べると少ないですが、モーツァルトの早熟の天才ぶりと、青雲の志というべき、溢れ出るみずみずしさが感じられる素敵な曲です。
モーツァルト一家のこのあとの「売り込み作戦」ですが、天然痘の大流行という災難に直面し、さすがのハプスブルク宮廷も経済的に疲弊。音楽どころではなくなりつつあり、また、宮廷はまだまだ「お雇い外国人」ことイタリア人勢力が強かったため、ドイツ語が母国語のモーツァルト一家には逆風が吹いたり・・・と、「命は助かったけれど、経済的な苦難」が降りかかるのですが、その話は、また別に機会に取り上げましょう。
本田聖嗣