さしずめ二人共「首席卒業」
下馬評では、ピアノの魔術師ともいうべきスクリャービンの評価が高かったようですが、音楽院の試験結果は、紙一重の差でラフマニノフのほうが上でした。彼が大金メダル、スクリャービンが少金メダル、と伝わっていますから、さしずめ二人共「首席卒業」の資格を得ているのですが、ほんの少しだけ、ラフマニノフの評価が高かったということです。
ラフマニノフはこの時作曲科の卒業制作で作ったオペラ「アレコ」も金メダルを受け、最高の成績で音楽院を卒業します。作曲志向が強かったラフマニノフは順風満帆かと思われますが、その後の交響曲第1番の初演の評判の悪さから、かなり長いスランプに入ってしまい、作曲家として復活するのは20代後半でした。スクリャービンはちょうど同じ頃、ピアノ科の教授として母校に戻っていましたが、すでに作曲家としてもピアノ曲を中心にキャリアを積みつつありました。作風は、あくまで「ロマン派の延長」であったラフマニノフに対し、初期作品こそロマン派的でしたが、次第にハーモニーも現代的・神秘的なものに変化していったスクリャービンは独特の世界を築きました。
その後、スクリャービンは若干43歳で亡くなってしまいますが、ラフマニノフは混乱の祖国を離れ米国に渡り、69歳の天命を全うします。いろいろな点で、対照的だったため、それほどの親交もなく、結果的にかなり異なった人生を歩んだ二人ですが、プロフェッショナルの音楽家への門出としての「音楽院卒業」の時点でだけ、二人は一瞬同じ場所にいたのです。
卒業は学生としては終わりの節目ですが、プロフェッショナルのキャリアとしては、門出に過ぎない・・・そんなことを思わせるエピソードです。
本田聖嗣