週刊ポスト(3月13日号)の「名曲カルテ 昭和歌謡といつまでも」で、堀井六郎さんが男性ムードコーラスを書いている。ヒット作も多く、一時代を築いたジャンルである。
「黒沢明とロス・プリモスの名前を知ったのは昭和42年(1967年=冨永注)の秋だったでしょうか」...こう始まるコラムは、往時の世相や通信事情を織り込んで展開する。
私より少し年長、昭和27(1952)年生まれの堀井さんは当時高校1年。ご多分に漏れず、ラジオで始まった深夜放送「オールナイトニッポン」に夢中で、音量を絞りつつグループサウンズ(GS)の曲に聴き入っていたという。
「そんな折、お気に入りの絶叫派GSとは対極にあるような大人のムードコーラス、『ラブユー東京』がラジオから突如として流れてきたのです」
その曲は昭和41年春、ロス・プリモスのデビュー曲(当初B面)として世に出、有線放送という懐かしい媒体でじわじわ人気を集めていた。
「有線放送が関西から東上してきたのは昭和39年の東京五輪閉会後あたりで、ラジオの歌謡リクエスト番組でも有線放送の順位が発表され、テレビには登場しない歌手やグループ、聞いたことのない歌の知名度アップに大きく貢献することになります。そして、その有線放送と蜜月関係にあったのが夜の盛り場で働くホステスさんたちでした」
水商売の女性たちが応援
コラムによると、東京五輪の前から大型キャバレーが都市部で急増する。銀座ハリウッド、新世界、ユニバース...こうした「夜の社交場」では、大人の歌を聴かせる歌手やコーラスグループ、お笑いを交えたボーイズ系の芸人らが、ほろ酔いの客とホステスを楽しませた。
「なかでも女心をくすぐる男性ムードコーラスはホステスさんに人気が高く、『ラブユー東京』が大ヒットへと導かれた大きな要因の一つ(中略)...ボーカル、森聖二の美声に魅せられた全国のホステスさんが、開店前にお店の公衆電話に向かったのでしょう」
曲を有線で流してもらえるよう、各グループのマネジャーも両替した10円硬貨で毎日何十回もリクエストしていたそうだ。
「キャバレーやナイトクラブで働く女性たちにとって、知名度の低い歌手やコーラスグループは、むしろ『同じ職場の仲間』といった親近感を抱きやすかったのかもしれません。来店前後の歌い手だったりすれば想いも一入(ひとしお)でしょうし...」
アイドルグループのファンのように、自分たちでスターに育てる意識もあったのか。いやもっと素朴に、下積み歌手にこそ売れてほしいという「同志愛」なのかもしれない。
「有線放送とホステスさんの後押しは『ラブユー東京』以後も、多くのムード歌謡を大ヒットに導くことになります...公衆電話がなくなりスマホが普及した現在において、忘れがちになってしまった『10円玉の持つ重み』はけっして軽いものではなかったのです」
SNSの「いいね」に相当?
〈七色の虹が 消えてしまったの シャボン玉のような あたしの涙...〉
「ラブユー東京」をご存じだろうか(私はすぐに歌えます)。懐かしく口ずさむ同世代も多いだろう。1968年から集計が始まったオリコンシングルチャートの、記念すべき初代1位(1月4日付から3週連続)でもある。
ムード歌謡はハワイアンやジャズ、ラテンなどをベースに、ナイトクラブやキャバレーなど夜の街に生まれ、育てられた楽曲である。ご当地ソングとの相性もいい。
和田弘とマヒナスターズ、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、内山田洋とクール・ファイブ、敏いとうとハッピー&ブルー、秋庭豊とアローナイツなどなど、1960年代から百花繚乱、多くのグループが競った。リーダーの氏名を冠した楽団のようなネーミングも特徴だ。
堀井さんは、有線放送というキーワードを手がかりに、夜の女たちが支えた新興グループの成功物語をアナログ感たっぷりにまとめている。「ラブユー東京」は甲府市のホステスたちから火がついたという。電話によるリクエストは、今ならSNSの「いいね」に近いか。「いいね」はタダだが、女性たちは財布の硬貨を公衆電話に投入した。
たかが10円、されど10円。半世紀前、官製ハガキがまだ7円の時代である。
冨永 格