現実の政治に熟議の居場所はあるのか
熟議に希望を持ってみたくなるような気もする。しかしながら、実際の政治をみると、米国はいうまでもなく、EU(欧州連合)離脱を巡る国民投票を実施した英国、政党の分極化が進む欧州など、現実政治が鏡への傾斜を強くしていることがいやでも目に入ってくる。我が国でも、消費増税と社会保障改革についての与野党合意が達成されたのは束の間のことで、その後、熟議が政治を動かす場面をみたことがない。
討論型世論調査は手間がかかる。また、無作為抽出によって小集団を選出するとはいっても、大多数の国民からみれば、その小集団の意見がなぜ特権的に扱われなければならないのか疑問が尽きることはない。これらの障害を乗り越えるためには、関係者間に相当の熱意が不可欠である。政権の座にある側からみれば、予め自分たちの期待する結論を熟議がもたらしてくれる保証はない。権力闘争としてみると、幅広い合意を得なければやりたい施策ができないという状況にない限り、わざわざ熟議をして敵対勢力に譲歩し、敵と手柄を分け合う動機は乏しい。我が国での消費税やエネルギー政策についての熟議が、いずれも国会での衆参の捻じれのもとにある弱い政権で試みられたことは示唆的である。
それでも、注意深く設計された小集団による熟議が機能することが示されつつあることの意義は評価されてしかるべきである。小集団の熟議の先例として、フィシュキンは古代ギリシアの500人委員会に繰り返し言及している。この500人委員会は無作為に選出された市民が討議により国政の重要事項(ソクラテスの刑死を含む)を決定するものである。小集団の熟議をこのようなフォーマルな制度として国制に取り込むことができれば、たしかに政治は変わるだろう。しかしながら、そこに至る道はなんとも遠い。
経済官庁 Repugnant Conclusion