ミヒヤエル・ハイドンへの対抗心だった?
時は1773年、ミヒヤエル・ハイドンは36歳の円熟期で、兄ほどではなくても、才能のある作曲家として、活躍中でした。モーツァルトは後年、彼の交響曲を拝借することもあったぐらいですから、彼への尊敬と信頼があったのだと思いますが、この時はまだ若干17歳でした。そして、音楽の本場、イタリア旅行から帰ってきたところだったのです。
音楽の本場で実力を上げ、いろいろなスタイルを吸収したモーツァルトが、新ジャンルである「弦楽五重奏」に取り組んだのは、先輩ミヒヤエル・ハイドンへの対抗心、そして、作曲家として本格始動を始めた青年モーツァルトの野心からだとも考えられます。ひょっとしたら、ミヒヤエル・ハイドンだけでなく、その兄ヨーゼフ・ハイドンへの尊敬や思いもあったかもしれません。ウィーンで活躍している「ハイドン」は、後にモーツァルトの才能を高く評価する、まさに「天才は天才を知る」作曲家でもあったのです。
そして、そういった意気込みからか、モーツァルトは、珍しく「改作」を行ないます。弦楽五重奏 第1番は、1773年の春には書き上げていたのですが、その後ウィーンへの旅行を挟んで、ザルツブルクに帰郷した冬に、第3楽章の真ん中のトリオという部分を書き直し、最終第4楽章は、全面的に書き直してしまったのです。ミヒヤエル・ハイドンの方は、同じ時期に、別の弦楽五重奏曲を生み出していました。
楽譜に書くときには完璧に出来上がっていて、一切の書き直しをしない・・といわれた天才モーツァルトですが、17歳の作曲家として羽ばたいていく時期には、先輩ハイドンにならい、弦楽五重奏という新しいジャンルに挑み、試行錯誤しながら自分のスキルを高めていったことがうかがえます。
結果的にこれは自信作となり、楽譜の扉に大きく自署しただけでなく、のちの「就職旅行」であるマンハイム・パリ旅行にも携えていったことが、彼の手紙からわかっています。
イタリアの香りもする軽快なモーツァルトらしいこの曲は、現代でも弦楽五重奏の代表的レパートリーとして、頻繁に演奏される名曲となっています。
本田聖嗣