先週取り上げたショパンの練習曲は、本来の目的の「練習曲」としても難易度が高く、現代でも学習者にとっては高い壁ですし、同時に芸術性に優れている曲たちでもあるので、プロのピアニストの演奏会用のレパートリーとしても、頻繁に取り上げられます。
「練習曲」というジャンルを超えて、ピアノ演奏にとって無くてはならない名曲に仕立て上げたショパンの天才ぶりもすごいことですが、彼自身は、ピアノは上手だったものの病気がちで体力がいつもなかったため、「パワフルなピアニスト」では決してありませんでした。そのため、演奏会を開けば大入り満員で、ある程度まとまった収入をもたらしてくれるし、周囲も「ショパンの演奏が聞きたい!」といって盛んに開催を勧めてくるのですが、彼はいつも逃げ回り、特にソロの演奏を積極的にはしようとしませんでした。
わずか10歳で演奏会デビュー
しかし19世紀は、ピアノという楽器が製鉄技術の発達などによりどんどんとパワフルさを増した時期であり、その「爆音が出るようになった」ピアノに合わせて、腕自慢のピアニストたちが続々と登場しました。
21世紀の現在ですと、どんなに才能を持って生まれたとしても、一流のピアニストになるには、師のもとで長い修業を積み、音楽学校に通い、コンクールに出場して良い成績を収める・・・というようなことが必要です。こうした「流れ」がなかった黎明期には、ほぼ独学でピアニストになってしまう人たちも、多く現れました。
1870年・・・ショパンがパリで亡くなったのは1849年ですから、21年後ということになります・・・に、現在リトアニアのカウナス郡となっている、当時の「ロシア帝国に占領されたポーランドの小さな村」に、レオポルド・ゴドフスキーは生まれました。幼い頃からピアノの才能を発揮した彼は、わずか10歳で演奏会デビューを飾り、14歳でベルリンに渡って音楽学校に入学するものの、すぐに辞めてしまい、その後は、「学びながら演奏活動をする」というスタイルで、広く欧米をさまよいます。米国に渡って演奏活動をした後、まだ存命だったピアニストにして作曲家のフランツ・リストに師事しようとドイツに戻ったものの、リストが死去してしまいます。フランスに渡って、これまた天才少年ピアニストとしてデビューして長命だった作曲家、サン=サーンスの知遇を得ますが、気に入られすぎてしまい、養子になってくれとまで提案されました。それを固辞したゴドフスキーは、再び渡米し、演奏会で幅広く活躍する傍ら、ニューヨークやフィラデルフィア、シカゴで重要な教授職に就き、さらにその後の20世紀を代表するピアニストや教育者を育てました。ちなみに、私もパリ時代の「恩師の恩師の恩師」が、彼になります。