20歳の頃イタリアに旅立つ
ヘンデルが生まれたのは、バッハと同じ1685年です 誕生日も1か月ほどしか違わず、生まれた街であるハレも、バッハの生誕地アイゼナハからわずか100キロほどしか離れていませんでした。若かりし頃、ドイツの大オルガニストにして作曲家、ブクステフーデの音楽に影響を受けているところも似ています。
しかし、ドイツにとどまったバッハと違い、ヘンデルは20歳の頃、イタリアに旅立ちます。そこはルネッサンス以来の音楽先進国であり、オペラの母国でもありました。ヘンデルはイタリアで、ローマでは宗教的なオラトリオを学び、同地で作曲すると同時に、一般の人向けのどちらかというと娯楽である「オペラ」というスタイルにもフィレンツェやヴェネツィアで触れたりと幅広い勉強をし、同時に作品も残しました。時には現地の名高い作曲家と「チェンバロで対決」などというスペクタクルめいたことまでやっています。宗教的作品が圧倒的に多い、ドイツから出なかったバッハと、宗教的なものも娯楽的なものも、自由に筆を振るうヘンデル。この頃から差異が現れたといってもいいでしょう。
3年半のイタリア滞在から帰国し、1710年、25歳のときに、北ドイツハノーファーの宮廷楽長になったヘンデルですが、その年から、より活躍の場を求めて、オランダ経由で英国の首都ロンドンに足を運ぶようになります。1710年とはロンドンのセント・ポール大聖堂の修復が終わった年で、同時に産業革命の直前・・・トマス・ニューコメンが蒸気機関を発明するのは1712年のことです・・・でもありました。音楽的には、英国・バロック最大の作曲家の一人、ヘンリー・パーセルが亡くなって10年以上たち、「お雇いイタリア人」が幅を効かせていたのですが、「英国の音楽」は、その社会の変革とともに、復活しようとしていました。オーストリアやフランスのように宮廷や貴族や教会だけが音楽を作るのではなく、一般の人々が裕福になって「音楽会に行く」という存在となり、音楽の新たなる市場を生み出しつつあったのです。そして、そこで求められた「英国音楽」の復活に大きく貢献したのが、外国からやってきて「英国人になった」ヘンデルという、誠にエネルギーに溢れた音楽家だった、といっても過言ではないのです。
偶然ですが、ヘンデルがハノーファーで使えていた王家、ハノーファー朝は、英国王家の親戚筋で、英国王位を狙っていました。そのため、ヘンデルがいち早くロンドンで、時のアン王女に気に入られると、ハノーファーの宮廷もヘンデルに長期休暇を与え、ロンドンでの活躍を後押しします。ドイツに籍を置きながらも英国で、王家や民衆のために作曲して活躍するヘンデルの舞台は整ったのです。